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愛道局

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 雪は止んでいた。しかし、自転車は思うように走ってはくれなかった。誰かが自転車で通った跡も、何人かの足跡の上も少し走っては横滑りし、倒れそうになった。それでも私は心のなかで「頑張れよ」と妻に声をかけながら走った。頭の中では最悪の事態を想像しては打ち消しながら走った。病院に着いた頃はすっかり体が暖まっていて、病院内の暖房がひどく暑く感じた。「病院から電話があったので行ってます」と書いたメモを置いて先に着いていた義母が恐い顔をして妻のベッドの側に居た。妻はぐったりしており、私を見て微かに表情を変えた。間もなく、主治医が現れてあれこれ説明をする。要するに、予想外に病状が悪くなったのでICUに移すと言うことらしいが、私は説明はいいから早く適切な処置をして下さいと、心の中で言い続けた。間もなく妻はICUに移され、しばらく経ってから面会を許されたときには、身体にいくつもの線と器具を取付けられ、痛々しい感じだった。
 
 造園用の雑木が植えてある所に来て、私はあまりの美しさにしばらく立ち止まって見ていた。小さめの木々の枝に雪が乗っかって真っ白い花を付けた木のようだった。いつしか私は歌を口ずさんでいた。サイレントナイトホーリーナイト………。もう太陽は西の方に沈もうとしている。私はまた別の歌を小さな声で歌う。ゆーきのふるまちをー 雪のふるまちをー……。鼻の奥の方から甘酢っぱい感じが押し寄せてきて、じわっと目が潤んでくる。周りの雪景色が滲んでゆれている。ゆっくりと、心地よく無性に寂しい気持ちに浸りながら歩いた。周りの雪がふわふわの布団のように思えてきた。このまま、そう、こんな気持ちのまま眠ってしまった何十年も昔の記憶が蘇ってきた。側に居たのは誰だったのだろう。側に居るだけで安らぎを与えてくれる人、そう考えて、私はとても重大なことを忘れていて、今思い出したというようにうろたえてしまった。行かなくちゃ、妻が入院している病院へ行かなくては、私は足が宙に浮いたような感じのまま、長い間通った病院への道を歩き出した。もう辺りは少しずつ暗くなりかけていた。履き古したブーツの底が減っているのだろう。歩くたびに滑るが、雪が深いせいかめり込んで止まる。


 少し息が切れてきたので立ち止まり、周りを見た。誰も歩いていない。上空に光を感じて私は空を見上げた。三日月と半月の間ぐらいの月があの日を思い出される。
 
 私は病院に妻を見舞いに行った帰り娘と雪道を歩いていた。
 娘が「あっ」と言って立ち止まった。私は娘の顔を見て、そしてその視線の方へ顔を向けた。空には三日月が出ていた。その三日月の顔の尖った顎の線の少し前に小さな星が見える。「童話の中の夜みたいだ」娘は言う。私はイッツオンリーアペーパームーンというフレーズが浮かんだ。あの映画も父と娘、いや違った、二人は他人同士だったかな。私はそれとは関係なく、東北の田舎の雪の夜のことを思い出していた。やはり月が出ていて、何の用事か私と母は夜道を歩いていた。月の光が街路灯の無い所でも充分に歩ける明るさにしていた。そしてその話を娘にしたが、娘はフーンと聞いていたがそれほど興味はないようだった。ちらっと見た娘の横顔は、何かを決心したようにキリッと引き締まり、少し大人びて見えた。
 
 私は足が思うように動かなくなっている。身体は暖まっており、頭はぼんやりとしてきた。目に入る白い世界は私を包み込むようにふわふわと迫ってくる。この感じは、妻とであって間もなくの頃を思い出させる。
 
作品名:愛道局 作家名:伊達梁川