和尚さんの法話 「運命」
仏教は、因縁、因果というようなことを言いますが、
この因縁因果ということは、平たく言えば運命ということになりますね。
運命が悪いということは、因縁が悪いということと一緒ですね。こう思います。
運命というのは良い運、悪い運ということですね。
その運命というのは、ほぼ決まっているということです。
決まっていますから、前もって予測が出来るわけですね。
その予測する方法がいわゆる運命学になるわけですかね、手相とか、人相とか八卦易者とかいろいろな方法がありますが。
大昔の先輩方がいろいろ苦心をして、どうもこのこういうところに、こういう相が出たら、こういうことが出てくると。
あの人もそうだった、この人もそうだったというふうにね。
というようなことを統計的に発見していったんでしょうかね。
いわゆる八卦、易というのは、あとからいろいろ付け足してきていますけれども、その一番根本というのは、孔子ですね。
孔子が発案したといっていますが、兎に角人間は努力であると。
だから立派なことを説いて、立派な指導をすれば、人はそれに遵ってきて、世の中は良くなっていくと。
そうかんがえたんでしょうけれども、なかなかそうはいかなかった。
誰も相手にしてくれなくて、干上がってしまったんですね。
飢え死にの一歩手前までいくというような状態までいったこともあるそうです。
それでお弟子さんの一人が、多少皮肉って言ったのかどうか分かりませんが、先生、君子はまた餓えることがございますかと。
論語の中によく君子と、出てきますね。
君子といわれる人も餓えるんですかと、いう質問に
君子もまた餓えることあり。
ただ、その根本は悩まないということをおっしゃっていますね。
兎に角、孔子は知恵や努力だけでは、なかなか世の中はうまくいかんというわけです。
世の中を見てると、そうでもない人間がすいすいとうまいこといく。
努力も何もしないのに、うまいこといく人があると。
逆に我々の周りにも、努力してるのにうまいこといかないという人がいる。
どうも人間には、天命というのがあるような気がすると、気がついたわけですね。
天命といいますのは、運命ですよね。
五十にして天命を知ると、いうような言葉が孔子の残した言葉にありますが。
そういうことで、それならばその天命というものを前もって、見つけ出すことが出来るのかどうなのか。
天命というのは決まってるんですから、努力以前に、決まったものですよね。
決まってるなら、その予知できるだろうと、予知できる方法がなければならんと、こういうことで出来たのが八卦ですね。
皆さんの中でも、運命というものを信じる人もあれば否定なさる人もいますが。
和尚さんの体験では、運命は、運が良ければ努力せんでもいいというようなもんじゃないけれども、うん名というものはあると。
和尚さんが初めて、人の手を見て当たったのは、中学の三年のときだそうです。
そのころから和尚さんは、運命に興味があって、自分の将来のことを早く知りたいというような単純な欲求が強かったそうです。
それで本屋へ行って、手相の本を買ってきたわけです。
それでまぁ、生命線が短いと命が短い。
生命線というのは、命の長いか短いかを判定する基礎ですね。
生命線が短いと、命が短いと書いてあるんです。
どの本にもそう書いてあると思います。それはもう昔から統計をとってきたんでしょうね。
それで同級生も見てほしいというわけです、興味盛んな年齢ですからね。
同じ運動クラブをやってた三人が集まったんですが、一人は剣道、一人は柔道、和尚さんは陸上と、皆、スポーツマン。
その剣道をやってた同級生の手を見たときに、生命線がものすごく短い。
これは生命線が短いから命が短いぞと、言ったんですね。
それで皆が卒業して、最初の夏休みに同窓会があって、柔道をやっていた友達は来ていたけど、剣道をやっていた友達が来ていないので聞いたら、あいつは死んだぞと。
このときは、生命線の話は忘れていたそうですので、驚いたそうです。
今だったら見てあげた人はどうなっているだろうかと、気になるけど、あの頃はほんのお遊びでしたから。
それを聞いて、そうだ、昔彼の手を見たら生命線が短かったけど、やっぱり当たるなと思ったんですね。
それが和尚さんが人の手を見て当てた最初のことだったそうです。
それから益々、これは運命というのは、ということで熱心になったんです。
それで東京の方の学校へ行ってまして、あっち、こっちの易者に見てもらって小遣いを使ったそうです。
そして或るお爺さんの易者が和尚さんを気に入ってくれたんです。
しまいには無料で見てくれるようになったんです。
それで、寺の息子かということでね、お寺の息子さんだったら大勢の人に接する機会があるだろうし、お説教もせんならんし、人の相談も受けんならんでしょう、こういうことを知っていたら役に立ちますよ、と言うて無料で教えてあげましょうと言うて、八卦をただで教えてもらったそうです。
その先生がこういうことをおっしゃっていました。
その友人が仕事がなくて探していたわけです。
そしてようよう就職することができて、そして明日から行くという前の日に、先生のところに遊びに来たらしいんです。
そして、明日から就職ができて行くんだけど、幸先はどうだろうかと言うて、見てほしいということです。
その友達は八卦をそれほど信じてないんですね。
ただ冷やかし半分に、自分の友達が、易が出来るということで見てくれと来たわけです。
そして、見たら悪い卦が出た。
その就職先へ行ったらいかんと。
これはもう止めろと言うたそうです。
ところがその友達は卦を信じてないから行ったんですね。
そしてその会社へ行った一日目に工場だったそうでして、ベルトへ手を巻き込まれてしまって、指を三本折ってしまったんです。
それが悪いという卦だったのですね。
就職といえば普通は、お金と、こう考えますよね、待遇を。
だから悪いと出たら待遇が悪いのかなと思ったんですね
悪い卦が出たら悪い運命のところへ行ってしまうから止めとけということですね。
つまり運命はあるということですね。
それで、和尚さんも卦を習っているので友達が見てくれと来るわけですが、勉強ですから見ますしね。
それで友達が愛媛で、実家からお父さんが病気やから帰ってこいという通知が来たんです。
そして行くときに、父親の病状はどうだろと聞くわけです。
そしたら死ぬという卦が出たんです。
これはあかんぞ、もう死ぬぞと、子供同士のことですからね、そう言うたわけです。
ですが友達はそんなこと信じてないわけです。
そんなものは当たるものかと。
そして、帰るんですが、帰るときに和尚さんたち友達二、三人と一緒に駅まで送っていったんですね。
そのときに、この旅行はどうかと聞かれるんです。
交通事故にあうとか、何かないかと言われて、卦を見たんですね。
すると、損をするという卦が出た。
それも、すぐに損をするという卦がでたんです。
易というのは、変化という意味で、これから先のことはどうなるか分からない。
今現在のことは皆分かっているわけですね、
この因縁因果ということは、平たく言えば運命ということになりますね。
運命が悪いということは、因縁が悪いということと一緒ですね。こう思います。
運命というのは良い運、悪い運ということですね。
その運命というのは、ほぼ決まっているということです。
決まっていますから、前もって予測が出来るわけですね。
その予測する方法がいわゆる運命学になるわけですかね、手相とか、人相とか八卦易者とかいろいろな方法がありますが。
大昔の先輩方がいろいろ苦心をして、どうもこのこういうところに、こういう相が出たら、こういうことが出てくると。
あの人もそうだった、この人もそうだったというふうにね。
というようなことを統計的に発見していったんでしょうかね。
いわゆる八卦、易というのは、あとからいろいろ付け足してきていますけれども、その一番根本というのは、孔子ですね。
孔子が発案したといっていますが、兎に角人間は努力であると。
だから立派なことを説いて、立派な指導をすれば、人はそれに遵ってきて、世の中は良くなっていくと。
そうかんがえたんでしょうけれども、なかなかそうはいかなかった。
誰も相手にしてくれなくて、干上がってしまったんですね。
飢え死にの一歩手前までいくというような状態までいったこともあるそうです。
それでお弟子さんの一人が、多少皮肉って言ったのかどうか分かりませんが、先生、君子はまた餓えることがございますかと。
論語の中によく君子と、出てきますね。
君子といわれる人も餓えるんですかと、いう質問に
君子もまた餓えることあり。
ただ、その根本は悩まないということをおっしゃっていますね。
兎に角、孔子は知恵や努力だけでは、なかなか世の中はうまくいかんというわけです。
世の中を見てると、そうでもない人間がすいすいとうまいこといく。
努力も何もしないのに、うまいこといく人があると。
逆に我々の周りにも、努力してるのにうまいこといかないという人がいる。
どうも人間には、天命というのがあるような気がすると、気がついたわけですね。
天命といいますのは、運命ですよね。
五十にして天命を知ると、いうような言葉が孔子の残した言葉にありますが。
そういうことで、それならばその天命というものを前もって、見つけ出すことが出来るのかどうなのか。
天命というのは決まってるんですから、努力以前に、決まったものですよね。
決まってるなら、その予知できるだろうと、予知できる方法がなければならんと、こういうことで出来たのが八卦ですね。
皆さんの中でも、運命というものを信じる人もあれば否定なさる人もいますが。
和尚さんの体験では、運命は、運が良ければ努力せんでもいいというようなもんじゃないけれども、うん名というものはあると。
和尚さんが初めて、人の手を見て当たったのは、中学の三年のときだそうです。
そのころから和尚さんは、運命に興味があって、自分の将来のことを早く知りたいというような単純な欲求が強かったそうです。
それで本屋へ行って、手相の本を買ってきたわけです。
それでまぁ、生命線が短いと命が短い。
生命線というのは、命の長いか短いかを判定する基礎ですね。
生命線が短いと、命が短いと書いてあるんです。
どの本にもそう書いてあると思います。それはもう昔から統計をとってきたんでしょうね。
それで同級生も見てほしいというわけです、興味盛んな年齢ですからね。
同じ運動クラブをやってた三人が集まったんですが、一人は剣道、一人は柔道、和尚さんは陸上と、皆、スポーツマン。
その剣道をやってた同級生の手を見たときに、生命線がものすごく短い。
これは生命線が短いから命が短いぞと、言ったんですね。
それで皆が卒業して、最初の夏休みに同窓会があって、柔道をやっていた友達は来ていたけど、剣道をやっていた友達が来ていないので聞いたら、あいつは死んだぞと。
このときは、生命線の話は忘れていたそうですので、驚いたそうです。
今だったら見てあげた人はどうなっているだろうかと、気になるけど、あの頃はほんのお遊びでしたから。
それを聞いて、そうだ、昔彼の手を見たら生命線が短かったけど、やっぱり当たるなと思ったんですね。
それが和尚さんが人の手を見て当てた最初のことだったそうです。
それから益々、これは運命というのは、ということで熱心になったんです。
それで東京の方の学校へ行ってまして、あっち、こっちの易者に見てもらって小遣いを使ったそうです。
そして或るお爺さんの易者が和尚さんを気に入ってくれたんです。
しまいには無料で見てくれるようになったんです。
それで、寺の息子かということでね、お寺の息子さんだったら大勢の人に接する機会があるだろうし、お説教もせんならんし、人の相談も受けんならんでしょう、こういうことを知っていたら役に立ちますよ、と言うて無料で教えてあげましょうと言うて、八卦をただで教えてもらったそうです。
その先生がこういうことをおっしゃっていました。
その友人が仕事がなくて探していたわけです。
そしてようよう就職することができて、そして明日から行くという前の日に、先生のところに遊びに来たらしいんです。
そして、明日から就職ができて行くんだけど、幸先はどうだろうかと言うて、見てほしいということです。
その友達は八卦をそれほど信じてないんですね。
ただ冷やかし半分に、自分の友達が、易が出来るということで見てくれと来たわけです。
そして、見たら悪い卦が出た。
その就職先へ行ったらいかんと。
これはもう止めろと言うたそうです。
ところがその友達は卦を信じてないから行ったんですね。
そしてその会社へ行った一日目に工場だったそうでして、ベルトへ手を巻き込まれてしまって、指を三本折ってしまったんです。
それが悪いという卦だったのですね。
就職といえば普通は、お金と、こう考えますよね、待遇を。
だから悪いと出たら待遇が悪いのかなと思ったんですね
悪い卦が出たら悪い運命のところへ行ってしまうから止めとけということですね。
つまり運命はあるということですね。
それで、和尚さんも卦を習っているので友達が見てくれと来るわけですが、勉強ですから見ますしね。
それで友達が愛媛で、実家からお父さんが病気やから帰ってこいという通知が来たんです。
そして行くときに、父親の病状はどうだろと聞くわけです。
そしたら死ぬという卦が出たんです。
これはあかんぞ、もう死ぬぞと、子供同士のことですからね、そう言うたわけです。
ですが友達はそんなこと信じてないわけです。
そんなものは当たるものかと。
そして、帰るんですが、帰るときに和尚さんたち友達二、三人と一緒に駅まで送っていったんですね。
そのときに、この旅行はどうかと聞かれるんです。
交通事故にあうとか、何かないかと言われて、卦を見たんですね。
すると、損をするという卦が出た。
それも、すぐに損をするという卦がでたんです。
易というのは、変化という意味で、これから先のことはどうなるか分からない。
今現在のことは皆分かっているわけですね、
作品名:和尚さんの法話 「運命」 作家名:みわ