ある日の松木一尉
松木一尉の朝は早い。
それは長年にわたって規則正しい生活を続けた結果である。
セットした目覚ましが最初の音を出した瞬間、すでに手がそれを止めているのだから、目覚ましをセットする意味があるのか、ないのか、首を捻りたくなる。
きれいに整えられた部屋は生活感が少ない。その数少ない生活感を出しているのが、枕もとに飾られた写真だ。
松木一尉の朝は、この写真への挨拶で始まる。
「おはようございます」
寝間着姿ながらきちっと背筋を正し、びしっとひじを張って敬礼すれば、写真の人が笑顔を深くしたように思え、ひとり幸せを感じるのだから単純だ。
パリッとアイロンの掛かった制服に着替えると、身も心も一段と引き締まる思いなのは、自衛官として正しく育まれた成果である。
「よし」
その上にエプロンをつけてキッチンに立つ姿は、凛々しい制服姿を見た後だけに形容しがたい。
それはなぜかといえば、百八十センチをわずかに越すがっしり体型の男が、ピンクの小花模様のエプロンをつけているからだ。
しかも、裾には乙女チックなレースがフリフリと可憐についている。
滑稽を通り越し、もはや唖然とするしかない。しかもこの逸品、彼女が持ち込んだものでも、いただき物でもない。
松木一尉が自分で吟味し、自分で購入したお気に入りのひとつだ。
見た目のアンバランスさに反し、手馴れた様子で料理をしていけば、見た目も立派な朝ご飯が完成する。
「いただきます」
ひとりでも挨拶は欠かさない。
いや、挨拶をする松木一尉の視線は、食卓に置かれたフォトスタンドに向いている。
写真と一緒に食卓を囲むなど、まるで長年連れ添った妻を亡くした老齢の夫のようだが、松木一尉はまだ二十七歳。
まだまだこれからの、花の独身である。
枯れるにはまだまだ血気盛んなお年頃だ。
体格に見合うだけの量を食べると、まめまめしく使った食器を洗い、きれいに拭いて片付けまで終わらせる。
几帳面なのは元からの性格だが、防大時代でさらに磨きを掛けた几帳面さはさすがA型。
新聞の大見出し小見出しに一通り目を通し、興味のある記事を拾い読みしていれば、そろそろ出かける時刻になっている。
「行って参ります」
狭い玄関先、誰もいないはずの部屋に向かってまたも敬礼する。――が、自衛官だからこその癖かと聞かれれば、それは大きな誤解だと声を大きくしたい。
松木一尉が特例なのだ。
松木一尉の視線を辿れば、ここにも当然のようにフォトスタンドが常駐している。
下駄箱の上に乗った写真をいつもより熱っぽく見つめた。
仕方ない、写真の中から優しげに微笑んでいるこの人に、松木一尉はこれから会うのだ。
その瞬間を思い描けば、ついつい顔が緩んでしまう。
遠くから想いを込めて見つめ続けていた自分の健気さを、どこからか恋愛の女神はちゃんと見ていてくれたのだ。
あの凛とした声が自分の名を呼び、あの微笑が自分に向けられるのだと、松木一尉の脳内は乙女チックな妄想に席巻され、国防色から桃色に塗り替えられていく。
「はあぁ」
思わず出たため息も、どこか軟弱な甘さが滲む。
「嬉しさに、心臓がどうにかなりそうだ」
自分の心臓の上で、松木一尉はぎゅっと手を握り込んだ。
いまどきの中学生でさえ、こんな純情はないだろう。
鼓動は早鐘のようになっている。
憧れの君に会える。
そう思うだけで脳内は桃色。
心臓はバクバク。
ついでに、いけないところへ血が集まってくる予感に松木一尉はあわてて頭を振った。
「行って参ります」
改めて挨拶をすると、松木一尉は自衛官らしく顔を引き締めて部屋を後にした。
颯爽と歩くその姿を前にし、目頭が熱くなるほどの想いが溢れた。だが背筋を伸ばし、直立不動の松木一尉はそんなことをおくびにも出さす、精悍とした表情を崩さない。昂ぶる気持ちを抑える姿が、いい意味で緊張感を生んでいる。
「四月一日付けでこちらに着任しました、一等海尉の松木啓介であります」
「着任を受諾した。今日から君の上官になる、三等海佐の高原尚だ」
凛とした声が自分だけに向けられる。
思い描いていた瞬間に、身体には電気が流れたような痺れるほどの衝撃が走った。
この人の部下になると思えば、松木一尉の脳内に溢れるほどのエンドルフィンが放出される。
幸福以外の何物でもない。
嬉しさを噛み締める口元は必要以上にきりりと引き締まり、緊張しているようにしか見えない。
そんな態度が高原に好印象を与えているとは、脳内麻薬に侵食されている松木一尉は知る由もないだろう。
「早速ですまないが、来週の訓練検閲には松木一尉も乗艦予定になっている。言葉で説明するより、実際に参加した方が覚えも早いだろうと鑑みてのことだが、何か支障はあるだろうか?」
黒い目が松木一尉を捕らえれば、例えどんな予定があったとしても、そんな物は即キャンセル決定だ。
親の死に目にだって会えなくてもいい。
一世一代の幸運を選ぶ、親不孝な息子を許してほしい。
これぞ恋は盲目。
二十四時間一緒にいられる夢のようなチャンスを断る言葉など、口が裂けても吐くわけがない。
「支障はありません」
「そうか、了解した」
松木がキッパリといえば、ふわっと高原の口元が綻んだ。
いけないとわかりつつも、そこから視線が外せなくなる。凛とした硬質で近寄りがたいばかりの印象が、急に違ったふうになるのに驚いた。
なんて不意打ちを仕掛けるのかと、松木一尉の胸に憎らしさが湧くが、それはどこまでも甘く幸せな桃色をしている。
このまま抱きしめたいという強い衝動は、副官であるという理性と、段階を踏んでからという生真面目な恋愛プランでどうにか抑えることができた。
「訓練計画書はこれだが、今回は実際訓練もある。乗艦する護衛艦だけでなく、潜水艦の性能にも目を通しておくといい」
「了解しました。ありがとうございます」
高原がファイルを手渡す。
またも、不意打ちの笑みが松木一尉の胸を直撃する。
「どうした? それほど緊張せずともいい」
衝動を抑える松木の様子を着任早々の緊張ととった高原は、その肩に手を置き、安心させるようにまたにっこりと笑みをみせた。
脈拍は急に跳ね上がり、一部分だけが血圧を上げ始めようとすれば、さすがに松木一尉も無表情を貫けなくなる。
「どうした?」
動揺が走ったのを目ざとく感じた高原が、松木一尉の顔を覗き込む。
丁度いい身長差が、丁度松木一尉を見上げる格好にする。少し上目遣いになった高原の顔は、どうしても余計な妄想へと駆り立てる起爆剤にしかならず、松木一尉が距離をとろうと後退すれば、追い詰めるように高原が前進する。
「な、何でもありません」
掠れそうになる声をどうにか誤魔化し、早くこの状態を変えたいと必至の思いで頭を回転させるが、脳内は軽いパニック状態となって鈍化している。
間近で見る高原の顔は、やはり凛として気高い。
(あぁ、どうしてこの人はこんなに・・・・・・敬愛しています)
それどころではない状況なのに、松木一尉は改めて自分の想いを確認していた。すると、じわっといけない熱が昂ぶるのを感じた。
それは長年にわたって規則正しい生活を続けた結果である。
セットした目覚ましが最初の音を出した瞬間、すでに手がそれを止めているのだから、目覚ましをセットする意味があるのか、ないのか、首を捻りたくなる。
きれいに整えられた部屋は生活感が少ない。その数少ない生活感を出しているのが、枕もとに飾られた写真だ。
松木一尉の朝は、この写真への挨拶で始まる。
「おはようございます」
寝間着姿ながらきちっと背筋を正し、びしっとひじを張って敬礼すれば、写真の人が笑顔を深くしたように思え、ひとり幸せを感じるのだから単純だ。
パリッとアイロンの掛かった制服に着替えると、身も心も一段と引き締まる思いなのは、自衛官として正しく育まれた成果である。
「よし」
その上にエプロンをつけてキッチンに立つ姿は、凛々しい制服姿を見た後だけに形容しがたい。
それはなぜかといえば、百八十センチをわずかに越すがっしり体型の男が、ピンクの小花模様のエプロンをつけているからだ。
しかも、裾には乙女チックなレースがフリフリと可憐についている。
滑稽を通り越し、もはや唖然とするしかない。しかもこの逸品、彼女が持ち込んだものでも、いただき物でもない。
松木一尉が自分で吟味し、自分で購入したお気に入りのひとつだ。
見た目のアンバランスさに反し、手馴れた様子で料理をしていけば、見た目も立派な朝ご飯が完成する。
「いただきます」
ひとりでも挨拶は欠かさない。
いや、挨拶をする松木一尉の視線は、食卓に置かれたフォトスタンドに向いている。
写真と一緒に食卓を囲むなど、まるで長年連れ添った妻を亡くした老齢の夫のようだが、松木一尉はまだ二十七歳。
まだまだこれからの、花の独身である。
枯れるにはまだまだ血気盛んなお年頃だ。
体格に見合うだけの量を食べると、まめまめしく使った食器を洗い、きれいに拭いて片付けまで終わらせる。
几帳面なのは元からの性格だが、防大時代でさらに磨きを掛けた几帳面さはさすがA型。
新聞の大見出し小見出しに一通り目を通し、興味のある記事を拾い読みしていれば、そろそろ出かける時刻になっている。
「行って参ります」
狭い玄関先、誰もいないはずの部屋に向かってまたも敬礼する。――が、自衛官だからこその癖かと聞かれれば、それは大きな誤解だと声を大きくしたい。
松木一尉が特例なのだ。
松木一尉の視線を辿れば、ここにも当然のようにフォトスタンドが常駐している。
下駄箱の上に乗った写真をいつもより熱っぽく見つめた。
仕方ない、写真の中から優しげに微笑んでいるこの人に、松木一尉はこれから会うのだ。
その瞬間を思い描けば、ついつい顔が緩んでしまう。
遠くから想いを込めて見つめ続けていた自分の健気さを、どこからか恋愛の女神はちゃんと見ていてくれたのだ。
あの凛とした声が自分の名を呼び、あの微笑が自分に向けられるのだと、松木一尉の脳内は乙女チックな妄想に席巻され、国防色から桃色に塗り替えられていく。
「はあぁ」
思わず出たため息も、どこか軟弱な甘さが滲む。
「嬉しさに、心臓がどうにかなりそうだ」
自分の心臓の上で、松木一尉はぎゅっと手を握り込んだ。
いまどきの中学生でさえ、こんな純情はないだろう。
鼓動は早鐘のようになっている。
憧れの君に会える。
そう思うだけで脳内は桃色。
心臓はバクバク。
ついでに、いけないところへ血が集まってくる予感に松木一尉はあわてて頭を振った。
「行って参ります」
改めて挨拶をすると、松木一尉は自衛官らしく顔を引き締めて部屋を後にした。
颯爽と歩くその姿を前にし、目頭が熱くなるほどの想いが溢れた。だが背筋を伸ばし、直立不動の松木一尉はそんなことをおくびにも出さす、精悍とした表情を崩さない。昂ぶる気持ちを抑える姿が、いい意味で緊張感を生んでいる。
「四月一日付けでこちらに着任しました、一等海尉の松木啓介であります」
「着任を受諾した。今日から君の上官になる、三等海佐の高原尚だ」
凛とした声が自分だけに向けられる。
思い描いていた瞬間に、身体には電気が流れたような痺れるほどの衝撃が走った。
この人の部下になると思えば、松木一尉の脳内に溢れるほどのエンドルフィンが放出される。
幸福以外の何物でもない。
嬉しさを噛み締める口元は必要以上にきりりと引き締まり、緊張しているようにしか見えない。
そんな態度が高原に好印象を与えているとは、脳内麻薬に侵食されている松木一尉は知る由もないだろう。
「早速ですまないが、来週の訓練検閲には松木一尉も乗艦予定になっている。言葉で説明するより、実際に参加した方が覚えも早いだろうと鑑みてのことだが、何か支障はあるだろうか?」
黒い目が松木一尉を捕らえれば、例えどんな予定があったとしても、そんな物は即キャンセル決定だ。
親の死に目にだって会えなくてもいい。
一世一代の幸運を選ぶ、親不孝な息子を許してほしい。
これぞ恋は盲目。
二十四時間一緒にいられる夢のようなチャンスを断る言葉など、口が裂けても吐くわけがない。
「支障はありません」
「そうか、了解した」
松木がキッパリといえば、ふわっと高原の口元が綻んだ。
いけないとわかりつつも、そこから視線が外せなくなる。凛とした硬質で近寄りがたいばかりの印象が、急に違ったふうになるのに驚いた。
なんて不意打ちを仕掛けるのかと、松木一尉の胸に憎らしさが湧くが、それはどこまでも甘く幸せな桃色をしている。
このまま抱きしめたいという強い衝動は、副官であるという理性と、段階を踏んでからという生真面目な恋愛プランでどうにか抑えることができた。
「訓練計画書はこれだが、今回は実際訓練もある。乗艦する護衛艦だけでなく、潜水艦の性能にも目を通しておくといい」
「了解しました。ありがとうございます」
高原がファイルを手渡す。
またも、不意打ちの笑みが松木一尉の胸を直撃する。
「どうした? それほど緊張せずともいい」
衝動を抑える松木の様子を着任早々の緊張ととった高原は、その肩に手を置き、安心させるようにまたにっこりと笑みをみせた。
脈拍は急に跳ね上がり、一部分だけが血圧を上げ始めようとすれば、さすがに松木一尉も無表情を貫けなくなる。
「どうした?」
動揺が走ったのを目ざとく感じた高原が、松木一尉の顔を覗き込む。
丁度いい身長差が、丁度松木一尉を見上げる格好にする。少し上目遣いになった高原の顔は、どうしても余計な妄想へと駆り立てる起爆剤にしかならず、松木一尉が距離をとろうと後退すれば、追い詰めるように高原が前進する。
「な、何でもありません」
掠れそうになる声をどうにか誤魔化し、早くこの状態を変えたいと必至の思いで頭を回転させるが、脳内は軽いパニック状態となって鈍化している。
間近で見る高原の顔は、やはり凛として気高い。
(あぁ、どうしてこの人はこんなに・・・・・・敬愛しています)
それどころではない状況なのに、松木一尉は改めて自分の想いを確認していた。すると、じわっといけない熱が昂ぶるのを感じた。