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和尚さんの法話 「因縁と運命」

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今日では、いろいろと犯罪が多いですね。
テレビや新聞を見ると、殺されたとか、詐欺だとか、物をとられたというような犯罪が多く報道されていますね。
そういう犯罪を犯す人の心理というのは、あの世というのを信じていないからなんですね。
死後の世界を認めていない。
地獄というのを信じていないということですね。
お経に書かれているような地獄というのが存在すると信じたら、犯罪は犯せないですね。
まあ、犯す人もいるかもしれないですが、それは微々たるもので、ちょっと二の足を踏むと思いますね。

この因縁因果というのは仏教の根本的な指導原理と思うのです。
善因善果、悪因悪果といいますが、ほんとうは善因楽果、悪因苦果ですね。
善因善果、悪因悪果という言葉はお経にも出てくると思いますけれども、本当は、善因楽果、悪因苦果だと思いますね。
善い行いは幸福を招き、悪い行いは不幸を招くという原理ですね。

これを、もうちょっと専門的な言葉を申しますと、異熟因、異熟果という言い方があるのですが、この異熟因、異熟果という言葉は、善因楽果、悪因苦果と言うのですが、善悪という性質と、幸福不幸というのは内容が違うのです。

善悪というのは意思の問題ですね、だから意思でもって働く。その意思が働いて、善い意思が働けば善い行為、悪い意思が働けば悪い行為ということですね。
それによって善い行為は楽を招き、悪い行為は苦を招くと、楽と苦は善悪と性質が違うわけです。
善悪は意思ですが苦楽というのは感覚の問題ですね

この犯罪を、犯す人はですね、この一生で終わりだという考え方だと思うのです。
恵まれていますと犯罪を、犯すまいと思うのですけれども、不幸になってきたとすると、同じような年齢でどんどん出世をする人がいると、同じ人間だけど、自分はとてもそこまで行かないだろうと、何か物をとってやろうと、こういうふうになるのではないかと思うのです。
うまく人の目を逃れていけばそれで大丈夫と。完全犯罪を計画するわけですね。

完全犯罪をやって、ある時期が来たら無罪になるということもありますね、時効ですか。
どうして時効というのを認めているのか不思議な思いがします。
時効というのがあるから余計に犯罪が起こるのではないかと思うのです。

犯罪を計画するのに初めから時効を考えて犯罪を犯すと、いうような意識が働く可能性がありますよね。そして或る時期がきたら無罪になるという。
いっそ、時効というのが無ければ、何時捕まるかわからんというので、恐怖心がありますよね、捕まったら罪になるとね。

法律家の方に聞いてみないと詳しい理由はわかりませんが、何か訳があって時効というのを作ったんだと思うのですが、時効はどうも犯罪を助長するような気がしますね。
(このお話しをお聞かせ頂いた頃は、まだ時効がありましたのでご了承下さい)

余計な話になりましたが、因縁といいますが、因果とも言いますね。因というのが根本原因ですね。
果というのが最後に来る結果ですね。
で、その因が直接果になるのではなくて、因が果になるために縁というのが条件になるわけです。
因プラス、縁プラス、果。こうなるわけなんです。
例えば、稲、或いは種でもいいですが、それが因で、それを石の箱に入れておいても、いつまでたっても芽が出ない。縁が無いからね。

ところが土の中へいれてやると、土というのが種に対する縁のひとつなんですね。
縁というのは重なることがあるのです。土に肥料をやるとか、水をやるとか、太陽の光線に当たるとかいうのは全て縁ですね。

そしてその種がどんどん成長して、花が咲いて実が生った。これが果ですね。
そういうふうに我々の善悪という因があって、それがすぐに幸福、不幸と出てくるんじゃなくて、そこにその縁というのが出てくる。
それによって結果である果が出るということです。


仏教では、短命の人は殺生が多いといいますね。
その殺生というのは人を殺すというのだけじゃなくて、鳥を殺す、魚を殺す、動物を殺すと、殺生を重ねていった場合は短命だということです。
その殺生の罪がやや弱いと命は長くても病弱だそうです。
それにあわせていいますと、殺生を非情に多くやってたとしますね、その人はもう短命という運命を持って生まれてきているわけです。

仮に、三十歳の寿命しかないと仮定しますと、三十歳になったら病気で死ぬか、事故で死ぬか、殺されて死ぬか、という縁ですね。
病気で死ぬ場合でしたら縁というのは自分の身体が命を短くしていいるのですから、現実にはね。
だから因が自分であって、縁も自分という肉体であって、果も自分ということですね。

ところが、事故というのは第三者が来るわけですね、汽車にひかれるとか電車や車の事故とか、殺されるとかいうのは第三の条件で、自分以外のものになりますね。

縁もいろいろあるのですが、病気は自分の身体ですからこれは問題が無いのですけれども、事故で死ぬ場合ですと、我々はどうしても相手を恨みますね。
ところが仏教でいうと、そこでそういう事故にあわんならんような、自分が前世でそういう罪を積んであるからだという考え方になるわけです。
罪を積んでなかったら、そこでそういう事故にあわない。
だからそこで殺されたのは、殺した者が悪いんじゃなくて、殺されるような自分が悪いんだと、こういう人生観になってくるわけです。

そこで、証明と、まではいかなかもしれませんけれども、体験談をお話しますと。
同時に運命というのはありますよ、という話にもなりますが。
和尚さんのお寺には多くの人が相談に来られるそうですが、その中にも印象に残る話もあるわけです。

其のひとつに、或るご婦人のお客さんがみえまして、いろいろ話をしまして
「実は私は、或る先生のところへお伺いをたててもらいにいってたんです」と。こういうのです
その先生とは、料理屋さんで、拝んでいると神様が乗り移って質問に答えるという、そういう方だったそうです。

其の方が亡くなったらしくて、人に聞いて和尚さんの所に来たそうなんです。
終戦後にジープというのがございましたね。進駐軍のジープ。
或るときに家の門を曲がったときに、そのジープに当たったらしいです。
当たりましたけれど、ごく軽くすんだそうでして、軽い打ち身程度ですんだそうです。
骨折もしないし、切れてもいない。それだけのことですんだそうです。

其の後、何か或る相談事が出来まして、その先生のところへ行ったんですね。
そして相談は、お知らせがあって。
済んだ後に、こう言うたそうです。
「お前は、私を信仰してくれているので、いつもお前を守っているんだぞ」と。
「しかしお前はちっとも気が付かない。」
「お前は先日、ジープに当たっただろう。」
と、言ったそうなんですが、先生にその話をしていないんです。
その事故の話を先生にしてあったら、先生が言うているんだろうと思うけど、先生は知らないはずなんですね。
軽くすんだから先生には言っていないんですね。
骨の何所かが折れたというのであれば先生に相談もしたかもしれないけど、軽くすんだので話をしていなかったんです。
ところが、事故にあったことも軽かったので忘れてしまってたんです。