和尚さんの法話 「無常」
私の為に塔婆を立てて欲しい。
一本や二本じゃ助かりません。
千本立てて欲しいのですと。
それを道へ立てたのです。
それが千本通りだということです。
片側に千本立てたのか、両側に五百本づつ立てたのか分かりませんけれども、兎に角千本立てたのです。
塔婆というのは、門徒さんはしませんけど、他の宗派は全部やりますね。
あの塔婆というのは、本来は五重塔、三重塔ですね。
だから仏体。仏様なんですね。
ですから死んだ人の冥福の為に塔を立てたら大きな功徳になるのです。
あの中へ仏様を祀るのですからね。
ただの塔と違うのですから、あの中へ仏様を祀るのですから。
お地蔵様とか観音様とか阿弥陀様とかね。
東寺さんとか、奈良へ行っても塔がありますね、中へきっと仏様を祀ってあるはずです。
木ですからね、木が石になって、石が更に木になったのが塔婆ですから。
石の塔婆でしたら、一番下の四角の所に、四方に仏様を彫ってますね。
それはそこに仏様を祀ってあるという印ですね。
新しいのは、仏様というより、梵字になってますね。
仏教では、字で以って、これは阿弥陀様、これはお地蔵様、これは観音様と、字で決まってあるのです。
それを死んだ人の冥福の為に立てると大きな功徳になるのです。
その功徳をあの世へ送ってあげる。
然し、それも大変だというので、簡略になったのが塔婆です。
更に簡略になったのが、水塔婆。
そういうことなんですね。
だから一本立てれば一本の功徳。二本立てれば二本の功徳。と、こういうことですね。
千本の塔婆を立ててくれたら私は救われますと言うのですね。
今は坊さんでも、そういうのを信じませんけどね。
だからこの世の功徳というのは、あの世へ通じるということですよね。
そしてその功徳は、廻向というのですが、あの世へ送るということを廻向といいます。
皆さんは、お経を読むだけが廻向だと思っている人が多いと思いますが、廻らせ向かう。この世の功徳をあの世へ廻らせる。
この世の功徳をあの世の父や母に廻らせ向かうということで。
お経を読んだら、そのお経の功徳をあの世へ送るというのが廻向であって、お経を読むことは読経(どきょう)ですよね。
その読経の功徳をあの世へ送ってこそ、廻向なんですね。
ですから葬式にお供養というのが付きますね。
それも、あの世の人の為に、その功徳を送るという意味なんです。
今はそれも坊さんが説明をしないから、お亡くなりになって、可哀相にというような労いのようなものですね、今は。
そうじゃないのですよ。
兎に角、大小の犠牲を払って、犠牲を払ったら功徳になるのですから、その人が得をしてるのだから。
相手を得させてあげたら自分は功徳というのを頂いているのです。
葬式では自分の功徳だけれども、死んだ人の為にやってるのですよ。その功徳を皆あの世へ送る。
死んだ人の幸福の為に送るのです。
それが廻向であって、お経を読むだけが廻向じゃないのです。
お経を読んだ功徳を送ること。
お金じゃなく、形のある物を貰っても、あの世へその功徳を送る。
そういうことが廻向ですね。
而も、廻向をしてもらった死んだ人よりも、廻向をする施主のほうが功徳が大きいというのです。
功徳の七分の六が施主の功徳になる。
残りの七分の一があの世へ行く。
だから死んだ人よりも、勤めた施主のほうが、功徳が大きい。
七分の六と、七分の一の違いというのを、地蔵本願経の中に出てきます。
ですから昔の坊さんはそういうのを説法したそうです。
それを聞いた一般の人の中に、欲が深いと言えば深いのですが、七分の七、功徳を貰いましょうと言うて、自分が施主になって、生きているうちに自分の葬式をする。
それは形だけですけれども、その費用は全部自分が出して、本当に葬式をする形にするのです。
死ぬわけではないですが、格好だけは葬式をして披露もして、お供養も出して、本当に死んだことにした葬式ですから、本当に死んだときの葬式と同じだけの費用がかかっているわけです。
ですから死んだら七分の一はあの世へ行ったときに届くし、生きてるうちに七分の六貰える。欲の深い話ですよね。
然し、そこまで信じてやるのですから、まあいいのではないでしょうか。
しないよりはましでしょうか。なんて言ったらいかんのですが。
明治の頃まであったようです。生きているうちに自分の葬式というのが。
今はそういうことをすると、警察がうるさいかもしれませんね。
何にしましても、あの世わるということを信じることが大事ですよね。
疑わないということですね。
こういうお話しがございます。
お経を称えているとき、集中すればいいのですが、どうしても雑念が入るのです。
それを和尚さんに質問をしますと、こういうお話しをして下さいました。
法然上人が、天王寺に居られたことがあって、法相宗の或る坊さんですが、法相宗ですから自力聖道門なんですよね。
奈良の興福寺とか、薬師寺とか、京都の清水寺が法相宗で自力の方になりますが、ところが、その坊さんは勉強をしながら、疑問があったのでしょうね。
法然上人というお方は、お念仏ということで、念仏で救われるということを説いている。
と、いうことを聞いて、そして折々に浄土門の勉強もしてたんですね。
然し、その法然上人に会わないといかんという気になってきたのですね。
その時は高野山に居ったということで、高野山から降りてきて、天王寺へ行って、案内も付かずにつかつかと上がって行って、「生死解脱の道は、どうしたら宜しかろう」と。
解脱する道は、どうしたら宜しいでしょうか。と聞いたのですね。
法然上人は、念仏に勝るものは無しと。
それは分かりましたと。
それは分かって、来たのだと。
ところが念仏をするとき、雑念が起こりますというのですね。
これはどうしたら宜しいのですか、と。
それで法然上人は、それは私も及びませんと応えたのです。
私も雑念は起こりますと。
それでその坊さんは、あ、そうですか。それで安心しました。
と言ってまた挨拶も無しですうっと帰ってしまった。というのです。
それでお付きのお弟子さんが、なんと無作法な坊さんですなあと。
来た挨拶も、帰る挨拶もしないで、聞きたいことだけ聞いて帰ってしまったと。
すると法然上人は、あれが縁じゃないかと。
そこまで私を訪ねてきて、挨拶も忘れて、聞きたいことだけを聞いて。
そういう話があるそうです。
ですから法然上人も、私も雑念が起こると。
法然上人の雑念と、我々の雑念とでは大きな開きがあるのでしょうけど、然しながら、凡夫は凡夫なりのね、一所懸命になったらそれでいいと思うのですよね。
とても法然上人には及びませんが、私は私の、ここまでという真剣さね。それで許されると思うのです。
ですから一所懸命にやっていたら、だんだんと雑念が無くなっていくのではないでしょうか。ということです。
了
作品名:和尚さんの法話 「無常」 作家名:みわ