アインシュタイン・ハイツ 104号室
或る月曜日のお客さま
その日、少年がある古い建物の明りのついていることに気がついたのは偶然だった。学校の部活で四月はじめのミーティングがあって、その後友人と買い食いをしていたために帰りがたまたま遅くなり、小さな路地を家までの近道にしようとしたときである。姉や母が洒落ていると言って好んで出かけて行く通りであることを知っていたが、少年のほうは今日までこの界隈を通ったことがなかった。
通りの両側には一定距離でひとつずつ街灯が置かれほのかに照らしていたのだが、辺りはすっかり陽が落ちていて、静かだった。通りすぎる店の外観はなるほどレトロで姉の言うように洒落ているかもしれない、とちらと思ったのだが、明りが街灯だけの暗いなか少年はひとり歩いていて、ほんの少しこわくなってきていた。――その矢先、気がついたのはどこからか旋律らしきものが聴こえるということである。そして見えてきたのは古めかしく明るいある建物であった。近くまで来てやはりそうだと思う。音楽はその『有沢工房』から流れてくることを知った。
(そういえば姉さんが言ってた、ぜんぜん開いているのを見たことがない工房があるって)
興味をひかれて、扉を開けた。
からん、と鈴の音が鳴る。
「あら。こんばんは」
鈴の音で振り返ったのは髪の短い女のひとだった。それぞれの耳にピアスが数個ずつ、そして左の口元にほくろがふたつ、並んでいるのがなんとも印象的な。
少年を見て、少し驚いたように、けれどおっとりと微笑んで、「いらっしゃいませ」と言った。工房と言うぐらいだから年寄りの爺さんがでてくるのかと思いきや、妙齢の女性に出迎えられて、少年は驚くやら恥ずかしいやらで気のきいた挨拶が言えずじまい、さらに自分が赤面しているのが分かってなんとも情けない心持ちになった。けれど女のひとは微笑しながら「こちらに座りなさいな」とそばにあるソファをすすめるので、困惑する少年はやや安心しながらその言葉に従った。
「はい、どうぞ」
彼女が少年のまえに差し出したのはcafe con latteだった。カフェ・ラテなんだけど、苦くないと思うわ、少し迷っているふうの少年を察して、彼女がそう言ったので、少年はカップに口をつけてみて――美味しいと思えた。春とは言え、陽の暖かい日もあれば風の冷たい日もある。今日は陽が落ちたあと冷え込むという天候だった。カフェ・ラテのあたたかい熱が身体を温めてくれ、同時に気持ちをおだやかにさせてくれる。
そうしてカフェ・ラテの湯気ごしに、少年は改めてクラシックの流れる工房のなかを見渡した。
全体の印象は木と工具、に尽きる。そしてここが何の工房なのか知った。壁側にはさまざまな数えられないほどの工具、天井近くにはヴァイオリンやそれより少し大きい弦楽器(ヴィオラである)が並んでいくつもつり下がってあった。さらにそれらと同じ形の大きな弦楽器が二つ、壁がわに立てかけてあったのだが(チェロとコントラバスという楽器だったが、少年はヴァイオリン以外の弦楽器の名前を知らなかった)、少年にとってそのように大きな楽器を見るのははじめてだった。こんなに大きな楽器があったのかと思う。 蓄音器が工房の端に置かれていた。高音質とはいいがたいレコードの音楽は、しかし工房の内部の材木を反射して、耳にやわらかく響いている。
「あの、ここは、弦楽器をつくっているところなんですね。ヴァイオリンとか」
低いテーブルをはさんで、彼女も少年と同じようにカフェ・ラテを飲んでいた。ちょうどひと休みをしたかったのよねえ、と言って、仕事の邪魔をしたのかと遠慮する少年をしり目にふたり分を用意したのだった。
「お姉さん、は楽器をつくるひとなんですか」
「そう。楽器職人。でもつくっているのはコントラバスねえ。ほかはまあ、置いているだけ」
「コントラバス?」
「あれよ」
と彼女はいちばん大きな弦楽器を指し示す。「それであの作業台に置いてあるのが製作途中のもの」と、壁がわに備え付けられている広い作業台の、弦楽器独特のフォルムをしたものが大きな箱のようになっていた。それを見とめて、あの大きな楽器をこの女のひとが造っているのか(たしかに彼女は女性としては長身だった)、と少年は思わず感心してしまう。
「あの、姉が言っていました。この工房、いつ開いてるんだって」
少年の姉の疑問に、あら、と彼女は楽しそうに、
「うちはねえ、夜から夜中にかけてずうっと開けていて、昼間は閉めてるわねえ。昼間はいつ来ても開けることはなくて、昼間はわたし、寝てるのよねえ」
お姉さんに教えてあげてね、と彼女は高くもなく低くもないやわらかな声で、やさしく言った。
少年は工房を出て家に向かう。三十分ほど話をして、少年は不思議に心地よい雰囲気を持つ彼女の名前を知った。そして工房が楽器工房であることを知り、ここが夜にしか開いていない不思議な工房であることを知り、そこにはいつも音楽が流れていて、楽器職人であるという彼女の声音こそが楽器のようであること、彼女の入れるカフェ・ラテが美味しいことを知った。
携帯で母に連絡を入れたので帰宅はあまり急がなくても良かったが、なんとなくあの工房のことを姉に話したくなり気が急いて自然と早足になる。夜道はこわくなかった。
作品名:アインシュタイン・ハイツ 104号室 作家名:藤中ふみ