アインシュタイン・ハイツ 104号室
有沢工房
その町の駅から10分ほど歩いたところ、左の路地を入ると、石畳の入りくんだ通りがある。そのゆるやかな坂の両側には雑貨や古着、本や文房具の店があって、レトロで小奇麗な雰囲気を訪れるひとびとに与えているのだった。そうした店のなかにひとつ、昼間は営業していない古い建物があった。通り過ぎるひとはここは何の店だろうと思うのだが、扉に『有沢工房』という小さなプレートがかかってあるのを見て、何かの工房かと納得する。けれどいつも開いていないふうなので、この工房はいったいいつ営業しているのだろうというのが、買い物に訪れるひとびとのひそかな疑問である。
さて工房の営業時間は厳密に決まっているわけではない。だいたい午後六時半から七時半くらいの間、ちょうど日が落ちると同時に工房の明りが灯る。夜の小さな通りはそれぞれの店のやわらかな光で溢れ、幻想的となる。けれどそれもほんの一時間ほど、八時も過ぎると、明りのついている窓は工房がひとつ。そしてかすかに聴こえてくるのはクラシックの曲であって、その合間には木の削れる音や低く響く音の旋律。
そこには訪れるひとびとに心地よい音色とカフェでもてなす工房の主人がひとりいるきりである。
作品名:アインシュタイン・ハイツ 104号室 作家名:藤中ふみ