習作「地元と呼ぶ場所」(参考:800字を書く力)
その日も電車は人で満杯だった。
ということを経験したのは後にも先にも電車通学だった高校時代だけだ。他の記憶から無理に探すとすれば中学の修学旅行先での出来事になる。東京での電車移動がたまたま通勤時間と重なってしまった時、くらいのものだ。まったく都会の満員電車というものは、田舎の電車と都会の電車の格の違いをあどけない男子中学生の脳裏にまざまざと刻みつけてくれた。「キャーこの人痴漢よ!」「違います!」「待ってください、この人は僕たちの先生です」「教師なのにこんなことやっていいと思ってんの!?」「だから違いますって! 生徒達の前でそんなことするわけないでしょ!」「まあっ! 語るに落ちたわね。見てないところではやるってこと!?」「あぁっ、もう……言いたくありませんでしたけど、僕にだって触る対象を選ぶ権利はあります!」あの時の電車内は急に静まり返って、その女性の顔が見える位置にいた男子生徒がプッ吹きだしたのを皮切りに、笑いの渦が巻き起こったのだ。今考えると、あの時は痴漢冤罪の話題真っ盛りだったから、あの時の事もそうなんだろうと早合点してしまったけれど、本当にあの恩師は触ってなかったのだろうか。今更だが事実が気になる。うっかりということもあったかも知れない。結果はどっちにしても大事に至らなくて良かったということが、僕を含む中学三年生の面々にとってはこれ以上ない幸いだった。修学旅行は続行されたとことが。先駆けて笑った甲斐があったというものだ。あの先生はまだお元気なのだろうか。
「間もなくぅ、まきよまち駅ぃでっす。お降り口はぁ右側でっす。」
見慣れた生まれ故郷の街並みと山の稜線を背景に、これまた見慣れた駅のホーム。駅名が書いてある真新しい看板は、ひらがなで「まきよまち駅」と可愛らしさをアピールしている。四年前くらいのひらがなブームに乗っかったのだ。すぐ隣に立っている観光案内看板の内容は、お隣の市にある城跡公園の案内というのが何ともやりきれない。
プシューと空気が解放される音が響いてから、ドアがほんの少しだけ開く。後は手動だ。後ろに続く人に配慮して、僕は両手で勢いよく開けて降車する。でも降りるのは僕だけだった。
「間もなくぅ、ドアがしまりまっす」
車掌が笛を鳴らす。ドアが閉まる。
思い出だけはやたら沢山あるこの町に胸の内でただいまと言ってから、僕は無性に気恥ずかしくなった。
作品名:習作「地元と呼ぶ場所」(参考:800字を書く力) 作家名:小豆龍