兄姉(きょうだい)
真っ白だった空間の側面、ないし壁に、一枚のふすまが現れたのだ。
ふすま。扉。出入り口。脱出口。
今このときだけは、たった一枚のふすまがとても多くの意味を持つ。
感極まることもなくふすまを開け。
取り敢えず、私は外に出た。
▼
気が付くと家にいた。
立っている場所はリビングらしい。
「――――」
妹と自分のためにコンビニで購入した商品が、食卓として使われているテーブルの上に。
だが、家で飲もうとしていたパックジュースを、俺は飲む気になれなかった。
とてもそんな気分じゃない。
食器棚からガラスのコップを手に取り、水道水を入れる。
この水を飲むか飲むまいか。
そんな思考を始める前に、俺はコップの水を飲み干していた。
コップをシンクに置き、自室へと向かう。
妹なら、テーブルの上にあるものを、俺への了承もなく取っていくだろう。これも、人生での経験だ。
「さて」
なにをするかは決めていない。
院の研究室の続きをするなら、部屋に入った瞬間に眠ってしまうだろう。
それも悪くない。
思考を張り巡らせながら、俺は自室のふすまを開ける。
なにもない部屋。
真っ白な空間。
そこで再び、俺は記憶を失った。
▼
真っ白な空間からふすまを伝って外に出ると、そこは自宅のリビングだった。
テーブルには弟が買ってきたのであろう、コンビニの袋がある。
「――うーん」
だとすると、今まで私がいたこの部屋は、自室ということになるのだろうか。
いやはや、私がこんな無趣味な趣味をしていたとは驚きだ。
まあ、そんなことはない。
この部屋は、私が好き好んで住んでいる空間ではないのだから。
では、なぜこの部屋が自室なのか。
答はとても簡単だ。
私は、この家で人間として認識されていないのだ。
▼
失った記憶はそのままに、俺は目を開けた。
自分がいるのは依然としてリビング。
先ほどと違うのは。
自分は部屋に入ろうとしていたのに。
今は、部屋から出て来た形で立っていることだ。
「十四三十八分二十九秒」
脳内時計を確認する。記憶が飛んで、大体三〇分ほど。
テーブルの上を見る。コンビニの袋は、未だ膨らみを保っていた。
「アイツ――」
アイツ、つまり妹のことを思い浮かべる。
自分にとても似た妹。
俺もアイツも顔立ちが中性なためか、髪型が同じだと見分けがつかないほど似ているという。
いつもなら、俺が買ってきた菓子類を、俺が知らぬ間に持って行ってしまう奴だ。
妹の靴はあったはず。
外出の形跡はない。
なのに、未だコンビニの袋の中に、商品が収まっているのは、いささか不自然だ。
まだ妹が気付いていないだけ、という話なのかもしれないが。
だが――だが、思い出してほしい。
思い出すのが優先だ、俺。
アイツ――俺の妹は、この家で、どういう扱いを受けていたかを。
果たしてアイツは、この家で、人間としての扱いを受けていたか、を。
そもそも、俺が入ろうとしていた部屋は、妹の部屋ではなかったか。
無趣味な趣味をしている部屋、では説明がつかないほどの空間。
空白ではなく殺風景。
いや、もはや殺すだけの風景もない。
無理な造語をするなら無風景。
ずっといれば気が狂ってもおかしくないあの部屋は、妹を隔離するためのものではなかったか。
だが――だが、その部屋に、妹の姿はない。
ではどこに行った。
家を出た形跡はない。
そもそも、アイツが一人で外出できるかも不透明だ。
一歩外に出れば、車のタイヤに巻き込まれてミンチになっても不思議じゃない。
「まずは一階か」
三分の一階。物置。客室。
人影なし。
三分の二階。リビング。風呂場。トイレ。台所。洗面所。妹の部屋。誰かの部屋。誰かの部屋。何かの部屋。
姿なし。
三分の三階。部屋。部屋。部屋。部屋。部屋。部屋。部屋。部屋。部屋。部屋。部屋。部屋。部屋。
なにかがいた。
「ただいま」
「おかえり」
ともかく。
俺が捜していたもの。
俺の妹は、両親の部屋にいた。
部屋の中心には、不自然に赤いツインベッド。
部屋の隅に化粧台とテレビ。
そして扉を開けた先――俺の視界の先には、大きな姿鏡がある。
その前に、妹は立っている。
右手に、刃渡り六寸の凶器を携えて。
▼
私の両親には、二人の子供がいる。
私と、弟。
だが、弟は自分のことを「兄だ」と言い張る。
最近はなかなか会えず、そのことについて決着を着けることができない。
だが、だが、だが。
それも、どうでもいい話。
「ただいま」
そう、そう、そう。
自分はこの家では人間ではないらしい。
そういう扱いを受けている。
そういう仕打ちで暮らしてきた。
それが当たり前だと刷り込まれ。
疑うことすらしなくなった。
思考停止がデフォルトとなり。
基本となる自分は崩れていくのだ。
なぜかって?
私は人間ではないのだから。
「おかえり」
弟の言葉に応える。
彼は両親の部屋にいた。
不自然に赤いツインベッド。
部屋の隅には、化粧台とテレビのみ。
そして扉を開けた先――私の目線には、大きな姿鏡が置かれいる。
その前に、弟が立っていた。
「――――」
互いに、無言のままで立っている。
私は部屋から出るために使ったナイフを、右手に持って。
だが、院から帰ってきた弟はなぜか、左手に同じナイフを持っていた。
これは不思議だ。
だがまあ。
そういう風に不思議に思わせる行動を取れるのも、今日までだ、弟よ。
――自分は人間ではないらしい。
――だから両親を殺したのだ。
けれども。
――罪ではない。私は人間ではないのだから。
そして――あとは、弟のみ。
殺す。
疑念は要らない。
躊躇いも、迷いや偽善も倫理観も。
簡単な話だ。
私は嫌になった。
私を人間扱いしない家族を、家庭を、人間を。
復讐みたいなものだ。
復讐が復讐を生むのなら、復讐が復讐を生みつける人間を殺し尽くせば事足りる。
復讐とは自己満足だ。得るものはなにもなくはない。得るのは自己満足なのだから。
まあ幸い、私は家族という人間どもを殺す以外に、なにもしなくていいらしい。
「――――」
刃渡り六寸の凶器を、弟へと向ける――だがなぜか、刃先は前を向いていない。
なだれ込むように、私は弟へと駆け寄って。
深く深く深々と、弟の胸へとナイフを突きつけた。
……刺すときに抵抗されたゆえか、とても自分の胸元が痛いが、トドメは刺した。間違いない。
嬉しくなって、気分が軽くなって、私はもう一度、弟に声をかけた。
たぶん弟にとっては、今生で最後に聞く言葉になるだろう。
「こんな所に居たのか、弟よ。
さようならだ――兄さんや」
ふっと身体が軽くなる。
とてもいい気分だ。
もう一度、最後を繰り返して、最期の「さようなら」を口にしたい。
だが、うまく口が動かない。
感動しているのか。
よく、分からない。
ただ眠い。
全部、終わった、からか。
ああ――終わった終わった。
さぁ眠ろう。