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兄姉(きょうだい)

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耳を劈く鉄の匂いで目が覚めた。
「――――」
 頭が重い。脳が完全に覚醒していないためか、日付と時間をうまく思い浮かべることができない。
「ケータイは・・・・・・」
 枕元を漁る。だが、いつもならそこにあるはずのものが、今日に限ってはないのだった。
 そもそも、私はベッドの上で寝ていない。
「・・・・・・ここどこ」
 見慣れない部屋。住み慣れない空間。身に覚えのない場所。
 ここがどこか判断するのに時間がかかった。
 導き出した答は、「知らない」の一言。
 そもそも、こんな部屋、家の中にあったかも分からないのだ。
「窓も扉もない……」
 恐らく家にいるだろう両親は外へ、弟は院の研究室だろう。
 仮にこの空間が家の中にあるとしても、ここから出れる可能性は極めて低い。
 真っ白な空間。側面六畳ほどの、正立方体。
 その隅っこに立ち尽くす、私。
 その中央に転がる、ナイフが刺さった人形が一つ。
「人形?」
 視界の端に捉えた映像を、言葉として反芻する。
 私の部屋どころか、自分の家で一度も見たことのない、人型の人形。
 身長は一七〇cmほどだろう。
 うつ伏せで転がる人形。とてもリアルな作りの人型。
 服は、上下共に赤。少し黒ずんだ色だが、別段違和感はない。胴体に「無視」という文字が書かれている点を除けば、だが。
「まあ」
 それがどうした、という話。
 人形の詳しい情報を手に入れたところで、だ。
 ここから出れる話にはならない。
 私が望むような出来事が起きることなどあり得ないのだから。
「それよりも」
 経緯。
 私がこの部屋で眠ることになった経緯を知りたい。
 先に述べているが、ここが自宅に存在する空間である、と決まった訳ではないのだから。
 経緯、もとい記憶を、目をつむって探る。
 私がここに至るまでの記憶の記録を。
 私が意識を失う直前に、なにをしていたのかを。
 一体、記憶が途切れるその瞬間まで、私は、実の弟となにをしていたというのだろうか。

  ▼
 鼻を突く鉄の音で目が覚めた。
「十五時三十八分二十九秒」
 脳内時計を確認して、俺は研究室のソファーから身体を起こした。
「……誰もいない。みんな帰ったか」
 掛け布団代わりに使っていた白衣を黒革の背もたれに掛け、身を起こす。覚醒していない脳は身体を動かすのに戸惑っているらしいが、そんなことは関係ない。この場合、勝ってしまうのは経験だ。
 戸惑う脳より、今までの経験。
 とすると、「起き上がりたい」と思っているコレは、脳での思考ではなく経験による無意識の判断ということになるのか。
「いや、いい。面倒だ」
 そんなことに頭を回してなんになる。得はない。損もない。詰まらなくもなければ、面白くもない。無駄なことだ。
 取り敢えず、俺は人生での経験を活かして、大学院の研究室から出る準備をする。点けっ放しな機材の電源を落とし、照明器具の明かりを消し、窓や扉の戸締りを確認する。
 研究室の鍵を元あった場所に戻してから、俺は坂之上に位置する大学院をあとにした。
「帰ったら、いま家には……」
 両親はいないだろう。平日の夕方だ。
 父親は仕事。母親は友人と買い物に行くと言っていた。とすると、家にいるのは妹のみとなる。
「なにか買って帰るか」
 坂下にあるコンビニに入り、妹と自分の分の飲み物と菓子類を購入する。屈託のある女の子に商品を袋越しに手渡されて、俺は大学院最寄の駅に向かった。
「次の電車まで、あと六分か」
 脳内時計に狂いなし。毎日深夜二時に更新されるこれは、人生の経験上で得たものだ。
 定期券で改札を潜り、エスカレーターでホームへ向かう。
 五つ並んだ椅子には、サラリーマンと高校生の男女が座っている。仕方ない、俺は立って時間を潰すことにした。
「……ん?」
 それから二分たって気が付いた。
 視界、ないし聴覚に、俺を呼ぶ人が傍にいることを。
 その人は、今朝寝坊したことを理由に話を聞かなかった刑事さんだった。
「いや、奇遇だね」
 ため息とも取れる返事をして、俺は仕方なく刑事さんの話を聞く。
「いや、三日前に、君の隣の家で、夫婦の心中があったんだ。それでね、三日前、隣家で変わったことはなかったかって、念のために聞いているんだ。自殺で間違いないだろうけども、形式上でね」
「えーっと」
 なんと答えるのがベストなのか。
 そもそも、三日前の記憶なぞ、もはや薄い。薄れ掛けているのではなく、もはや忘却しきっていると言ってもいい。
「捜査も終わって、現場から警察は引き上げている。現場はまだそのままだけどね。周囲の人たちにも話は聞き終わっていてね。君を除いて、だが」
 周囲の人たちからの聞き込みは終わっている。
 ならば話は早い。
 一言で、答えることができるのだから。
「なら刑事さん。俺の家族にも話は聞いたんでしょう? 俺の答は家族が言った通りですよ」
 電車が来るまで、あと一分。
 どうやら、乗車までに刑事さんとの話は綺麗に終わることができそうだ。
 だが――どうも、刑事さんは、納得がいかないと見える。
 不思議そうに、顔をしかめながら、表情の理由を口にした。
「いやいや――君は、一人暮らしだろう?」

 このあと少し、俺の記憶が飛んでしまう。

  ▼

 思い出せないので目を開けた。
 果たして、私はこの空白の間に至るまで、なにをしていたというのか。
 謎。まったくの謎である。
 空白の間。
 略すなら空間だが。
 訳す、ないし振り仮名をつけるなら、「ブラックボックス」が妥当だろう。
「まあ」
 そんなことはどうでもいい。
 出来の判断がしにくい言葉遊びはほどほどに。
 詰まらない思考を張り巡らすのをやめて、私は空間の下方面中央に転がる人形に近付いた。
 近付いて思ったが、この人形はどこか、この前聞き込みにきた刑事さんに似ていた。
 他人の空似だろう、と背中に刺さっているナイフを人形から抜く。
 刃には、「血抜き済み」という文字が黒マジックで書かれていた。
 首を傾げ、私は切っ先に指を近づける。
 軽く刃を動かす。ほんの微かな摩擦熱。
 それが熱さなのか、痛みだったのか。
 判断できぬまま、私の指先は出血していた。
 どうやら本物らしい。
「イテテ……」
 傷は唾を付けておけば治る、という言葉がある。
 先人は偉大である。
 私は出血を治すため。そして痛みを認識しないために、指先を口の中に突っ込んだ。
 暫らくしゃぶるような形になるが、誰も見ていない。
 赤ん坊のようだ、と思っているのも私だけ。
 気楽でいいな。
「――――」
 ほぼ無口なのはご愛嬌。
 それほど独り言が激しい人間ではないので、無言のままで、私は次に思いついたことを行動に移した。
 当面の道具はナイフのみ。
 ゆえ、私は刃渡り六寸の凶器を使用させて頂くことにする。
 使用方法はとても簡単。
 空間中の壁という壁を、ナイフの刃先でなぞって、もとい刻んでいくのだ。届かない天井を除いて、だが。
 無駄な行為、と思われるかもしれないが、そうでもなかったらしい。
 当人の私も暇潰し程度に始めた行為だが、効果が現れて吃驚仰天。
 とまではいかないが、多少なりとも驚いてみた。
作品名:兄姉(きょうだい) 作家名:じんるい