和尚さんの法話 「臨終の一念」
「設い我仏を得たらんに十方の衆生至心に我が国に生ぜんと欲し、乃至十念せんに若し生ぜずんば正覚を取らず、と、此の願既に成就して阿弥陀仏と号し奉る。 然れば即ち我等凡夫往生極楽の決定は仏の正覚に究されり。 但だ南無阿弥陀仏と唱えて臨終一念に娑婆生死の身を捨てて必ず安養浄土に詣うずべし。」
― 他阿上人法話 ―
この願は既に十劫以前に成立してるんです。仏教では、どの仏様でも元は凡夫なんだ、初めから仏様と言うのはない。
皆、凡夫が修行をして声聞と成り、縁覚と成り、菩薩に成って如来に成っていくのです。そういう教えですね。
阿弥陀様も初めから如来様じゃなくて、元は凡夫の時代もあるのですが、お経には法蔵菩薩というところからお経は始まってます。
或る国の王が仏様の法を聞いて、発心して国を捨ててしまって、坊さんになって法蔵といったんです。既に過去に前世からずっと仏縁のある方なんですね。
今生では国王として生まれてきたのですが、世自在王如来様の説法を聞いて、そこで発心して国の王位を捨ててしまって沙門となり法蔵となったわけです。
それで法蔵菩薩といったのです。
その法蔵菩薩様が、世自在王如来様の前で、私が将来、阿弥陀如来という如来に成ります。
そして極楽浄土という浄土を作ります。
「設い我仏を得たらんに十方の衆生至心に我が国に生ぜんと欲し、乃至十念せんに若し生ぜずんば正覚を取らず、と、此の願既に成就して阿弥陀仏と号し奉る。 然れば即ち我等凡夫往生極楽の決定は仏の正覚に究されり。 但だ南無阿弥陀仏と唱えて臨終一念に娑婆生死の身を捨てて必ず安養浄土に詣うずべし。」
という誓いをたてたのです。
これが菩薩のときにたてた誓願なんです。仏に成ったときには必ずするということです。
それが既に過去において成立して極楽浄土を作ってらっしゃるから、実行すれば必ず救われるんだということです。
我々は阿弥陀様のこの誓願によって、臨終の一念を称えるだけで救われるのです。
十三、
「何時も一念なれども命の長短によりて念仏の多少も不同なり。 にわかに終われば一念、延ぶれば三念十念、万遍、只命の長短によるべし。」
― 他阿上人法話 ―
一遍だと思うて、一遍だけだと思うたらいかんぞということです。
臨終は何時来るかわからんから、今が臨終だ、今が臨終だと思う。平生即臨終だと思いなさいということです。
そうしていつも今が臨終だと思うて称えていると本当の臨終がきたときは何もうろたえることがない。
十四、
「信心有り気なる人の往生を遂げざるは臨終を知らざる故にて候。 臨終は何時の年何時の月、何時の日の何時の刻とは兼ねてより知り難ければ、念仏相続と申す事の候なり。」
何時死ぬときが来るかわからんから絶えず念仏する。
その念仏の中へ臨終が来るということです。
十五、
「数遍は数遍の為に非ず相続の為、相続は相続の為に非ず臨終一念の為。」
― 他阿上人法話 ―
念仏は一遍よりも三遍と多ほうがいいに決まってるわけですね。
然しそれは単に称えるだけじゃなくて兎に角、続ける。
続けるために南無阿弥陀仏と常に称える。相続するために念仏を称える。
相続が目的で念仏するんじゃないんだ。その相続というのは臨終の一念のためなんだということです。
つまり、皆さんがなにかの稽古事をして晴れの舞台へ出ることがあるとしますね。
そのために随分稽古をなさいますね。
臨終は稽古じゃないですが、本番にどじを踏まないための用意に稽古をするわけです。
それと同じなんです念仏もね。
臨終にさえ一遍念仏を称えたらいいんだとおもうて平素に念仏を称えてなければ、臨終が来たときに失念、錯乱、顛倒してしまう。
稽古事でも一所懸命に稽古をしたつもりでも、舞台へ出たらとちってしまう。
ということもあるはずです。況や死ぬほどの問題では、そうは問屋が卸さない。
平素の健康な心で判断してたら危ない。ということですね。
十六、
「まさしく臨終の時刻知り難ければこそ善導和尚は「恒願一切臨終時」とは釈せられたり。 心に臨終を知らざれば唱う所の名号を臨終と定むるなり、されば何時にても申す所臨終なり、されば何時死するとも臨終違うべからず。」
― 他阿上人法話 ―
善導和尚は、全てのときを臨終と思いなさいといってるのですね。
何時のときも臨終だと思いなさいといってるわけです。
兎に角、臨終は心顛倒せず、心失念せず、心錯乱せずということで迎えなければなりませんわけです。
和尚さんの檀家さんの話になるのですが、その檀家さんの親戚の人が死ぬときに七転八倒したそうです。
そして落ちる落ちるといいながら死んで行ったそうです。
落ちるから畳に縛ってくれと。
その人は地獄へ落ちていったのでしょうね。落ちるといっても、布団に寝ているのだから肉体が落ちるのではなくて、心が霊魂が落ちるのだけれども身体が落ちていくように思うのですね。
それは心が錯乱してるからでしょうね。
側に居た人が、どうしたんだとびっくりしてる間に死んでいったそうです。
実際にそういう話もあるのですから。
あの清盛もそうですよね。
厳島神社を建てたけれども、他に悪いことをいっぱいしてますね。
だから清盛が死ぬときに閻魔の丁から火の車が迎えに来たという話が源氏物語に出てますね。
あれも本当だろうと思いますね。
兎に角、あの世があるということが前提です。
いい所へ行けるならいいですが、何処へ行くやらわからないというのが問題ですね。
了
作品名:和尚さんの法話 「臨終の一念」 作家名:みわ