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和尚さんの法話 「臨終の一念」

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それから妄念、邪(よこしま)な心。をわきまえて、こうしたらいかん、こんなことになったらいかんということを弁(わきま)えて、平生から慎まなければいかん。
ましてやその臨終がきたときには、いっそうのことである。臨終の一念があぶないのだからいっそうのことである。
平生は良しにつけ悪しきにつけ、なんとなく生きていますね。
臨終には良しにつけ悪しきにつけ増上の心となって強くなってくる。
100%ではありませんが、そういうことが多いですね。
このことは、昔のお坊さんのほとんどのお坊さんがこの言葉を使った。
とにかく臨終ということを忘れたいかん。ここを正念場というのです。
今の世間の人は正念場といいますが、一番大事なときというときを正念場と使ってるのです。
その正念場とは、いつかというと、臨終のときなんです。
これだけ臨終の正念場が大事なんだということが出てきますと、臨終が大事なんだということを思わなければいけないですね。
兎に角、臨終には思いもよらないことが起こってくるというのです。

八、
「今の人も宿善有り心決定せば生ずべし。 但し、既に教に逢い知識にも逢い乍ら平生の志薄く、臨終に若し苦患にも迫められ正念乱れなば三心も如何がとこそ覚ゆれ。 下品下生の人は始めて逢い、勇猛なれば罪障も滅し日輪の迎いにも預かれり。 今の人は逢い乍ら其の志薄からんは習い先よりおろそかなり。 臨終に初めて識有らん事極めて希なり。 人の病重く正念乱れ臨終になりては日頃より仕なれ、思いなれ心にそみたる事必ず現るものなり。」

                           ― 紗石集 ―



現在の人も、「今の人も宿善有り心決定せば生ずべし」というのだから、往生できるだろうというのですね。
宿善もあるし、それから決定の信心もある、ならば極楽往生できるであろうということですね。

「但し、既に教に逢い知識にも逢い乍ら平生の志薄く」
なんとなく、一所懸命になっていないということですね。
仏縁もあり、善知識もありながら、志が深くない。
そういう人が、さて臨終ということが起こってきたときに正念が乱れる。
そのときに正念が乱れたならば「三心も如何がとこそ覚ゆれ」
三心というのは、極楽へ往生する三心というのが観無量寿経に説いていますね。
至誠心、深心、回向発願心。これが極楽往生のための三つの心です。それを三心といいます。

法然上人も言っていますように、極楽往生したいと願うならば、南無阿弥陀仏と称えましょう、こもり候なりと言っていますように、深心がどうの至誠心がどうのといちいち理解しなくても、ただ南無阿弥陀仏と称えて往生を願いなさい。
そのなかに三心がこもり候なりと法然上人が言ってますね。
一遍上人もそう言ってる。
だから一心に南無阿弥陀仏と後生を願って拝んでいたらそのなかに三心が篭ってるのです。
三心というのがどうだったかとはっきり理解しようとすると偉い上人でなければ理解することができないですから。
だから正念を失ってしまったら三心が出て来ないというのです。

「下品下生の人は始めて逢い、勇猛なれば罪障も滅し日輪の迎いにも預かれり。」
下品下生の人とは、悪の限りをしてきた人で、その人が始めて仏法に逢うわけです。
そして勇猛心になったということですね。勇猛は一所懸命になったということです。
一所懸命にお経を称えたわけです。
罪も許されて、日輪の迎えとは、一番いいのは阿弥陀様がお迎えに来てくださる。
次に化仏が迎えに来てくれる。
そして下品下生になってきたら蓮の花が迎えに来るのです。
阿弥陀様でも化仏でも、必ず観音様が蓮の花を持ってる。蓮台ですね。
その蓮の花へ乗るわけです。
そして極楽の池に蓮の花が行くわけです。その蓮の花が日輪のように輝きながらお迎えにくるのです。
その蓮の花が日輪のように光り輝いて目の前に現れるので、それが太陽のように見える蓮の花だということです。日輪というのは、そういう意味です。
今の人は、その善知識、仏法に逢いながら志が薄い。
日頃の行いが足りないということです。

「臨終に初めて識有らん事極めて希なり」
この識というのは、善知識のことです。
つまり臨終の善知識というのですが、仏縁が深かったら知り合いの坊さんでも枕辺に来て覚悟を教えてくれるのですが、ところがそういうふうに逢う人が少ないということです。
皆さんはどうでしょうか、現在にこのように死ぬときに、何処かの坊さんを呼んできてもらう人があるでしょうか。

臨終の善知識というのは大事なんです。
知り合いに坊さんがあっても、なかなか来てもらえないのに、よほど信心が決定していないと難しいでしょうね。

兎に角、臨終の一念は後生を決定するということですね。だから正念場なんだということです。
正念場には、祈りもしなけりゃならんし、願いもしなきゃならん。正念でなければ出来ないから正念なんです。
その正念のときに百年の業に勝るのですから、たとえ一遍の念仏でも、真の篭った念仏であったならば必ず極楽往生できること間違い無し。と、これはお経にちゃんと根拠があるわけです。

九、
「其の名号を聞きて信心歓喜し、乃至一念至心に回向して彼の国に生ぜんと願ずれば即ち往生を得。」

                         ― 大無量寿経 ―


極楽往生を願って、我が名を称えよ。
そうすれば必ず迎えて往生させるぞという本願ですね。
それを聞いて歓喜して喜んだんですね。
こんなことで易々と往生させてもらえるのかと、信心歓喜した。
乃至一念とありますが、本願は十念と出てきますが、ここでは一念と、これはお釈迦様のお言葉なんですよね。
お釈迦様が一念といってるのです。
乃至十念の誓いは阿弥陀様のお言葉でです。では阿弥陀様とお釈迦様のお説が違うじゃないかという疑問がありますが、どちらも如来様ですから、十念でも一念でもいいのです。
どちらも正しいのです。如来様のいうことに矛盾は絶対にありませんから。
だから十念でもいいし、一念でもいいのです。
そうなれば、十念よりも一念のほうが楽ですから一念のほうをとったらいかがかなと思うのです。
仮に十念でなければならんと決まってたら、三遍か四遍称えてるときに死んでしまったら往生できないということになる。
だから臨終の一念をとるのです。

十、
「若し人臨終の時阿弥陀仏を念ぜば決定して彼の国に往生す。」

                     ― 往生要集 ―


十一、
「大方生死を離れて往生を遂ぐる事易かるべきに非ずと雖も仏願の名号不思議に縁りて凡夫の我執名聞慢心貪欲、瞋恚、愚痴等の識情、みな臨終の一念に名号の利剣を以って業を切る間、即身成仏と名付けず浄土往生と号するなり。」

                         ― 他阿上人法話 ―


浄土門では、即身成仏とは言わないです。真言宗では即身成仏といいますね。
浄土門は、まず極楽に往生してそして向こうで成仏していくのです。
そういうことで浄土往生というのです。
業や煩悩を除いてしまって、そして極楽往生して生死を解脱するということです。


十二、