和尚さんの法話 「前世と来世」
だからどうぞ、因縁因果ということを信じていただいて、これは歴然として現れてくるんですから。
因縁因果ということは、善因善果、悪因悪果ということです。
先祖の因縁とよく言いますが、先祖の因縁は、仏教の教えと違います。
仏教は、自業自得です。
自分が行った報いを自分が受けるんです。
「父不善を為せども子代わりて報いを受けず」というお経があります。
お父さんが悪いことをしても、その報いは子供が受けることは無いということです。
本人が受けるんです。
「子不善を為せども父代わりて報いを受けず」というのもありますね。
「順現業、順次業、順後業、順不後業、」とあるんですが、「順現業」というのは、此の世で行ってこの世で報いてくるんですが、これは少ないですね。
なかには、あんないい人がなんであんなめに遭うのかと、あんな悪い人がなんであんなにうまいこといくのかと、いう人がいますね。
「順次業と」いうのは、此の世での行いが、あの世で受ける。死後の世界で受けるんですね。
霊魂が出てきて、霊魂の横に鬼がついてた、その霊魂は地獄へ落ちてるという話しを以前に書いたと思いますが、その場合がこの順次業です。
この世の報いが死後に地獄へ落ちてる、餓鬼へ落ちて報いを受ける。
「順後業」というのは、あの世へ行って、今度この世へ出てきたときに報いを受ける。
ほとんど我々が受けるのは、この順後業です。
「順不後業」というのは、その以後死んであの世へ生まれ、この世へ生まれ、また死んであの世へ生まれると、何時かこの世へ生まれてきたときに報いてくる、それが何時か分からん。何時か分からんけれども報いを受ける。
お経のなかに、釈迦族というのは出てくるんですが、釈迦族というのは攻められて滅亡してしまうんですよね。
お釈迦さんは、敵が攻めてくるのが分かってるから道端の木の下で坐禅を組んでるんですね。
戦争になって戦を仕掛けて、途中で仏様に遭ったら戦争はしてはいけないという、そういう習わしがあるんですね、その時代に。
だから座ってるのを見て引き返して行くわけです。
また或るときに、お釈迦様はまた道端へ座ると、また帰る。
ところがその大将が、仏というのはいろいろと知ってるらしいから、我々が攻めるのを知ってたからあそこへ現れるんだから、今度仏が座ってたって引き返すことはいらんから攻めよという命令をするんですね。
そしたらお釈迦様は、今度はだめだというのが分かってるから行かない。
目連尊者も通力を持ってるから、世尊よ、また敵が攻めてきますがお行きになりませんのですかと言うと、今度はもうだめだと。
釈迦族は滅亡せんならんのだと。
それだったら私の持ってる神通力で敵を防ぎましょうか、と言うと、お釈迦様は、決定の業は神通力で防げると思うのかと。
それで釈迦族は滅びてしまうんです。
そのときにお釈迦様は、釈迦族というのはずーっと過去の数えることの出来ない過去に、或る海の漁師をしてたと。
毎日、魚を捕って生計をたててた。
そのときの漁師が釈迦族なんだと。
今、攻めてくる敵は、そのとき捕られた魚だというのです。
魚が生まれ変わって、敵に生まれてきたんだと。
そのときに私は漁師の息子であって、親が浜へ出て網を引いて魚を捕ってた。
そのときに小さい魚は網の目から出て浜へ落ちるんですね。
その魚を拾ってきて、面白がって石の上へ乗せて石で魚の頭を叩いてつぶして遊んだというのです。
だから私は今日一日頭が痛いというのです。
その釈迦族の滅びる今日一日頭が痛いということが書いてある。
そういうことで、順不後業というのは、何時来るか分からないが、必ず来るんですね。
これは悪い報いだけじゃなくて、善い報いも必ず来るんです。
だから天皇陛下のような人は、前世に善いことをした人ですよ、世のため人のために尽くした人ですね、だから天皇陛下というのは、我々の生活と比べれば結構な生活と違いますか、家庭へ入れば苦労もあるかもしれませんけどね。
心配事は周りの人が皆やってくれるでしょ。
昔の将軍さんでもそうですね、善いことをした人は皆善い報いを受けるんですよ。
そういうところへ生まれるのは偶然と違うんです。
ホームレスになるような人は、人のことはどうでもいい、自分さえよかったらいいと、いうような生き様をした人がホームレスのような境遇に生まれるんですよ、全部、自分の前世の業だから誰も恨むことは無い。自分が悪いんです。
善かったら自分の前世の行いが善いということですね。
了
作品名:和尚さんの法話 「前世と来世」 作家名:みわ