和尚さんの法話 「因果応報」
仏教では、これはどうしても避けられないということが三つありまして、そのひとつが
「業決定は転じ難し。」
決定的な業、決定の業は回避することが出来ないというのがひとつ。
「縁無き衆生は度し難し。」
「一切衆生は尽し難し。」
と、この三つを三種不成と言いましてどうすることも出来ないのですね。
仏といえども、どうにも出来ない。
で、目連の罪は決定の業だったんですね。
で、それは何かというと、仏教では父母に対する罪というのは非常に重いんですね。
ですから父母を殺したら永久に救われないのです。
罪に五逆罪というのがあって、
一、父を殺す。
二、母を殺す。
三、阿羅漢を殺す。
四、仏様に怪我をさせる。
仏様は殺すことは出来ないのですが怪我をさせることがある。仏様の身体から血を出す仏身出血。
五、仏教教団を破壊する。
これを五逆罪といいます。
これは永久に救われないというほどの深い罪になっているのです。
で、目連は前世でお母さんを殺したんじゃないんだけれども、殺してやろうかと、そういう心に念を抱いてそれを言葉に出したでしょ、その業なんですね。
業というと、皆さんは手をかけて人を殴るとか
2、殺すとか、物をとるとか、身体を使ってする行いだけが罪になると思っていますが、そうではなくて口で言いますね、善い言葉を使うとか、悪い言葉を使うとかね。
その善い言葉は善い業になりますが、悪い言葉は悪い業になるわけです。
それからもうひとつは、心。
心であの人は可哀相に、可哀相にと思うだけですけれど、それは善いほうの業になりますね。
ところがそうではなくて心の中で、殺してやろうかと心の中で思う。
口にも出さないし、手もかけないのですが心で思った、それも何らかの悪業になるのです。
身、口、意の三業と言って、身体で行った業と、口で行った業と、心で思った業と三つの業があるのです。
ですから手をかけてないから罪にならんと思うでしょうけど、口を言っていることも業になるし、心で思ったことも善悪共に業になるというのです。
ですから目連は口で言ったのですが、心でも思ったでしょうね。
実際に殺してないけど、心に思って、クソババア殺してやろうかと、口で言うた。
その報いで目連はこの世へ生まれてきたときは、最後、命が終わる時はいつも殺されて死ぬ運命になっているのだと言うのです。
いつも殺されて終わり、ころされて終ると、永遠にそれを繰り返してきたわけですが、今度のこのお釈迦様のお膝元でお弟子になって、これで前世の業は全部尽きた、ということがお経の中に出てきます。
これは善不定業という業ですね。
ずーっと過去の業が、生まれても生まれても人に殺されて終わるような運命を背負って生まれてきたのですね。
目連のような徳の高い人でも業が深いと、平等に受けるということになるのですね。
誰も見ていないから何をしてもいいだろうと、そういうわけにはいかないということですね。
どんなに徳の高い人でも業は業になるのです。
そういうふうな教えが仏教の教えなんです。
お釈迦様の時代に、非常に貧乏な女性が居りまして、ナンダという貧女ですが、自分はどうしてこんな貧乏に生まれついたのだろうと思ったのですね。
家もなければ家族もない。寺の軒下で寝起きをしたり、野原で野宿をするような生活をして、どこかに雇ってもらえたらそこへ寝泊りをするというふうな生活をしていたわけですね。
自分は前世で何をしてきたのだろうと思い悩んだわけです。
「我何の宿罪在りてか今生各の如きの貧窮(ひんぐ)なり」という女性が言った言葉としてお経があるのです。
宿罪というのは、前世の罪ということですね。前世のことを宿世というのです。
貧窮というのは貧乏で困窮するという意味ですね。
自分は前世でどういう罪を犯してきたのだろうと嘆いたのですね。
ちょうどそのころにお釈迦様が祇園精舎を根拠として法を説くのですが、時々他国へ出て行って法を説いていました。
他国というのは、日本でいう他の県ですね。祇園精舎の鐘の音という歌がありますが、舎衛国の祇園精舎がある国ですね。
昔は今で言う県を国と言うたんですね。
日本でも、昔は河内の国とか紀伊の国と、今でいう県のことを国といいましたね。
インドにも、国という県がたくさんあって、それが集まって、インドという国になったわけですね。
ですから祇園精舎は、今でいうと県になりますが、そのころは国といったんです。
そこを根拠にして時々は他国へ行って法を説いて、戻ってくるという生活をしていたわけですね。
それで、或るときに他国にお説教に行って祇園精舎へお帰りになるのです。それが帰るのがたまたま夜になるというのですね。
昔のことに道は暗いですよね、それで仏様に暗い道を通っていただくのは勿体無いというわけで、皆そのお釈迦様の通る道に足元が明るくなるようにと、お灯明を付けるわけです。
昔は現在のような蝋燭が無かったので油ですね。
で、其の時にナンダが自分も得を積ませていただいて、お灯明を捧げましょうと思ったのです。
お釈迦様がお帰りになるのは何時頃になるということを知らされていますから、それまでに働いてお金を稼いでお灯明を捧げたいと思って、一所懸命に働いたのです。
が、お釈迦様が今夜お帰りになるという日になりましたが、油を買うだけのお金が足りないんです。
それで仕方が無いので、自分の髪の毛を切って、カツラ屋さんへ買ってもらって、そしてそのお金を持って油を買いに行ったのですが、そのお金を足してでも最低の量の油を買う料金に満たない。油を得ることが出来なかったのですね。
それで油屋さんが、失礼ですが貴女のような野宿をしてるような境遇の人がどうして油を必要とするのかと、聞くわけです。
「私は、火は要らないのですが、ご承知のとうりお釈迦様がお帰りになります。
その道すがらに皆さんはお灯明を捧げられています。
私もささやかながら、そのお灯明をお捧げして仏様のご加護を受けたいと思うのです」
そういうことなら、よろしい。足りない分はおまけをしてあげましょうと言って分けてくれたのです。
そして灯明をお供えすることが出来たのです。
それでも最低の量ですから、ごく小さな灯明ですね。
そんな小さな灯明なら、大勢の人が大きな灯明をお供えしているのだから、用を成さないのではと思いますが。
「貧者の一灯、長者の万灯」とう言葉を皆さんご存知と思うのですが。
お金持ちの人は沢山の灯明をお供えするわけですね。
ところがこの人は貧乏で、自分の髪の毛を売ってでも最低の量の油も買うことが出来ずにおまけをしてもらったというのですから、ほんの小さいお灯明をお供えするわけです。
これを比較した場合に、功徳はどちらが大きいかというと、この小さいお灯明の方が大きいのですよ。
例えて言いますと、大金持ちの人が百万円を寄付したとします。
そしてホームレスのような人が思い立って、一万円を寄付したとすると、功徳の方はこのホームレスの一万円の方が、長者が出した百万円の功徳よりも勝るということになるのです。
仏教では、量で量らないで質でとってくれるわけなんです。
作品名:和尚さんの法話 「因果応報」 作家名:みわ