狢
すいません、すいません、ちょっと、そこの人。
今、ものすごく変な体験をしたので聞いてもらえませんか? 誰かに話したいんですよ。あ、はいはい、歩きながらでけっこうですので。
ん? なんですって? 私を知ってるような気がする?
馬鹿言っちゃいけませんよ。あなたと私は正真正銘の初対面ですよ。
そんなことよりですね……うーん、どう話そうかな?
あなた、小泉八雲って知ってますか?
……そうそう、ラフカディオ・ハーンです。本名も割とみんな知ってますよね。その彼の書いた本に『怪談』ってのがあるんですが、それは知ってますか?
……なるほど、じゃあ、その中の『むじな』って話はどうですか?
……ああ、それは知らないようですね。じゃあちょっとそこから話しますか。まあ、と言っても簡単な話ですがね。
江戸時代、とある寂しい道でのことです。ある夜に一人の商人がそこを歩いていると、若い女がしゃがみこんで泣いていました。その商人が「どうしたんだい?」と心配して声をかけると、振り向いたその女の顔にはなんと、目も鼻も口もない、のっぺらぼうだったわけです。腰をぬかさんばかりに驚いた商人は、一目散にそこから逃げだして、明かりの灯る屋台のソバ屋に駆け込んだんですよ。で、商人はそこの店主に、息も絶え絶え、今見たことを話そうとするんです。けど、上手く言葉にならない。するとソバ屋が振り向いてこう一言。それはこんな顔じゃありませんでしたかね?
……え? 知ってる? 聞いたら思い出したと。
そうですかそうですか。そうですね、これけっこう有名な話ですから。
で、ここからが本題で、私もついさっき、これと同じ体験をしまして。
その川向こうにある暗い道を歩いてたらですね……そう、夜だからなおさらですよね……歩いてたら、若そうな女性が如何にも辛そうにうずくまってるんですよ。それで、周りには他に人もいないし、何か病気だったら大変だと思いまして、声をかけたんです。まあ私も人ですから、ちょっとした下心もありましたし。
そしたらあなた、声に反応して振り向いたその女性、なんとのっぺらぼうだったんです。あの小泉八雲の話の通り、目も鼻も口もない。
びっくりしてしまいましてね。私は、逃げることもできずに茫然と立ちつくしてしまったんです。
……あ、ええ、大丈夫でした。私が驚いたのに満足したのか、すぐに消えてしまいましたから。
何とか気を取り直して足早に歩き出しましたが、その暗い道から抜け出たときさすがに安心しましたねえ。ほっとしましたよ。
そこで、初めて小泉八雲の話を思い出しました。なるほど世の中にはあんなものが本当にいるのだな、と。のっぺらぼうですからね。
そしてそのとき改めて考えてみて思ったのは、ああいう怪異は人の世の理を離れているとは言っても、やってることは可愛いものだな、ということです。だって人を驚かせるだけですからねえ。
まあそうじゃないのもいるかもしれませんが、のっぺらぼう程度じゃ、まだ人の方が怖いと思いますよ。人は、暴力をふるいますから。
ああ、すいません。話が逸れましたね。
あれ? どうしました? 顔が蒼いですよ? そんな怖い話でもないでしょう?
……大丈夫? そうですか、じゃあ続きを。
道を抜けてほっとして、歩いているとコンビニがあったんです。
やはりそんな体験すると人恋しくなるもので、お手洗いを借りたいのもあったのでそこに入りました。店員が一人いたのですが、その人は後ろを向いて何か作業していました。
用を済ませて、まあ借り賃にガムでも買おうかとカウンターに行くと、店員はまだ後ろを向いて作業をしている。
ははあ、と思いました。
これはあの有名な話その通りなんだな、と。
そこで私ははたと思いつき、今トイレで洗ったものをポケットに忍ばせて、その店員に話しかけたんですよ。