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和尚さんの法話 「阿弥陀経」 2

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ああ、前世において何か悪いことをしてたんだと、思えないから何で私だけがと、こうなるんですね、これを愚痴を言うんです。
前世の因縁に愚かだということです 言葉が愚痴じゃなくて因果の道理を信じないことを愚痴というのです。愚かと書くでしょ。
因果に対して愚かだから言葉にだして言うのです。


阿弥陀如来様が世自在王如来様の説法を聞いて、そして修行をしだして私もあなた様のように仏になります。
未来に阿弥陀となって極楽浄土を作りますと誓うんです。
国王を捨ててたちまちお坊さんになってしまうのです。
このように前世から修行を積んで積んで国王としてこの世に産まれてきてるのです。
今から十劫前に如来様になられたというのですね。
如来となって極楽浄土を建設して今日まで十劫という時間がたってるという(一劫の時間は最初のほうに説明してますのでここでは省きます)

舎利仏彼の仏に無量無辺の声聞の弟子ありみな阿羅漢なり
声聞というのは直接如来様のお説教を聞いて悟りを開いた弟子を声聞という。そういう声聞の弟子が大勢居てそれが皆阿羅漢だというのです。

三界を超越した人ばっかりだということです。
これは数えることの出来ない数だという
諸々の菩薩衆も亦かくのごとし 舎利仏彼の仏の国土には、かくのごとき功徳荘厳を成就せり。
また舎利仏極楽国土には衆生生ずる者は皆これ阿び跋(あびばっち)なり。
あびばっちとは もう元に戻らないということです。

修行が足りないと上がったり下がったりして、なかなか人間をの六道を解脱出来ないんですけど、あびばっちというのはもう元の戻らないのです。

下がらないで上がるばっかりなんですね、不退と言って退かないんです。
修行の位が上がるばっかりでもう戻らないんです。その中に多く一生補ショ(文字が出ません)
一生ふしょというのは、今度この世へ産まれてきたら仏様に成ると言う位の菩薩です。


例えば観音様とかそういう方は皆一生ふしょの菩薩様です。この世へもういっぺん人間として産まれるときはもう仏として産まれる。
それくらいの菩薩を一生ふしょというのです。

「其の数は、はなはだ多し是算数のよく知るところあらず。ただ無量無辺阿僧儀劫をもて説くべし」
数えることの出来ないほどの不退転の菩薩の数が居られるという事です

「舎利仏衆生きかん者はまさに発願して彼の国に生ぜんと願ずべし」
仏様の功徳を聞いた者は皆発願して極楽に生まれようという気持ちを起こしなさいということです

「故はいかに是のごとき諸々の上善人とともにいっしょにえすることを得ればなり」
上善人とはこの上がないような立派な人々です。
菩薩とか阿羅漢ですから、そういう立派な方々と一緒に住むことが出来るんだから、そうして極楽へ行ったら位が上へ上へと上がって行くばっかりになるです。
こういう菩薩様方が大勢いるのです。そして不退転になるんだからもう輪廻して人間に戻ることはないのです。

「舎利仏少善根福徳の因縁を以ては彼の国に生ずることを得べからず」
ちょっとやそっとの功徳では極楽へ往生することは出来ないんだと、極楽へ往生しようと思ったらよっぽど大きな功徳を積まないと極楽へは行くことが出来ない。

「舎利仏もし善男子善女人ありて阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持すること」
善男子善女人とは、男性の修行者、女性の修行者ですね、阿弥陀仏の説くお話を聞いて、若しくは一日若しくは二日若しは三日若しは四日若しは五日もしは六日若しは七日、一心みだれずは(一心不乱ということですね)一心不乱とは仏教の言葉ですね。


「其の人命終わるときに臨みて阿弥陀仏諸々の聖衆とともに現に其の前に在します」
つまり、お迎えに来て下さるということです。
来迎といいますね 阿弥陀様のご誓願の中にこの言葉がよく出てきますね来迎。
極楽へ往生したいと願うならば必ず迎えに行くというご誓願が阿弥陀様にあるわけです。
名号を執持することとありますが、今亡くなるというときに、若しくは一日と二日で終わったなら二日とありますけどお経ですから七日できってますけど10日であれば10日と、とにかくもう助からんと、もう死ぬよりほかは無いんだと観念できたら念仏ばっかり唱えなさいということです。死ぬとわかったら一心不乱に念仏を唱えなさいということですね。

「是の人終わる時心転倒せず」
とは、亡くなるときには いろんな症状が襲ってくるんですよね。転倒、錯乱、失念と、だから呆けるというのも失念ですから、自分の夫が来ても妻が来ても、あなたはどなた様ですかってなことに。
だから呆けないことも祈らないといけませんね
中国の念仏をひろめた善導大師という方は命終の時に、今死んで行くというときにですね、心転倒せず心錯乱せず心失念せずとよく言ってるんですよね、呆けたら念仏というのも解らなくなりますからね。自分はこれから死んで行くんだというはっきりした冷静な判断ができたら
これは念仏を唱えるというのが解りますね。
このお念仏ですが たとえ十篇でも一遍でもいいんですよ、南無阿弥陀仏と唱えますがこれは平静のときじゃなくって、臨終のときです
これから死んで行くというときに唱えるんです。

死ぬときに息を引き取ってお医者さんがご臨終ですといいますが、ところが臨終とは終わりに臨むということですから、まだ終りが来てないんですよ。
若しくは一日若しくは二日と、これから終わりに臨んでるわけです。その間の念仏を言うわけです。その間にたとえ10遍でも一遍でも唱えることが出来たら必ず阿弥陀様はお迎えに来て下さるということです。

「是の人終わる時心転倒せず即ち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得ん」「舎利仏我是の利を見るがゆえに此の言を説く」
これは阿弥陀様は念仏を唱える者はちゃんと見てると言ってるんですね。

「若し衆生ありて是の説を聞かん者はまさに発願して彼の国語に生ずべし」
これは 私の今言ったことを信じる者は極楽往生を願って発願しなさいということです。

「舎利仏我今阿弥陀仏の不可思議功徳を惨憺するがごとく 東方にまた阿シュクビ佛須弥相佛大須弥佛須弥光佛妙音佛かくのごとき等の恒河沙数の諸仏まします」
これは東方にはこういう仏様方がいらっしゃって、その数は浜の真砂の砂の数ほどあるということです。各々其の国において説法を聞かせている。

「遍く三千大千世界を覆いて誠實の言を説きたまう」これは あらゆる世界にその声が聞こえるということ。
「舎利仏南方世界に日月燈佛名聞光佛大焔肩佛須彌燈佛無量精進佛かくのごとき等の恒河沙数の諸仏まします」
南方にはそういう仏様がいらっしゃって無数の仏様が居られる。

「おのおの其の国おいて広長の舌相を出だして遍く三千台千世界を覆いて誠實の言を説きたまう」世界中に響くほどのお説教という意味ですね

「汝ら衆生まさに是の称賛不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべし」
この阿弥陀経を信じなさいということですね。