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砂漠の王の愛奴隷

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砂漠の王の愛奴隷

なぜ、こんなことになってしまったのか。
瀬川雪乃は苦悶の表情を浮かべ、高い天井の模様を見つめていた。
美しいレリーフ模様は、いわゆるアラビア紋様というもので
草木をかたどった曲線の中心には、この王国のエンブレムが描かれている。
剣と馬。
それが、ここイシュバール王国の国章である。
イシュバール王国はアラビア種の馬の産地として有名で、
名馬を多く輩出している。

雪乃の愛馬であるイルバーノもそうだった。
しなやかな細身の体に艶やかな黒い毛。しかし目つきは鋭い、美しい雌馬だ。
雪乃の15歳の誕生日に父親から贈られた、家族同然の馬だった。

「イルバーノ…」

ぽつりとつぶやいてみる。
静かな洞窟の泉に雫が落ちるような、心地よく響く声だ。

「どうした」

葵の声に応えるかのように、シーク・ジェラードが現れた。
イシュバール王国の首長であり、アラビア地方のホースレース界を統べる男である。

「……ジェラード…」

雪乃はその硝子細工のような澄んだ瞳を憂いげに震わせ、
自分よりも数倍は上背のある男を見上げた。
この部屋には扉というものがない。
いくつかの天幕が柱と柱の間に垂らされている。

「余計なことは考えず、おまえは私との結婚のことだけ考えるんだ。
かわいい私の花嫁」

そう言うとジェラードは雪乃の手を取り、指先に口づけを落とした。
褐色の肌に高い鼻筋、官能的な群青の瞳が雪乃を見つめる。
その目が何を思っているのか、雪乃にはわからなかった。

幼いころから乗馬の訓練に打ち込んできた雪乃にとって
男性と触れ合う機会はあまりなかった。
幼稚舎から大学までを一貫して名門私立S女学院で過ごしたのだから、無理もない。
もっとも、小柄で愛らしい顔立ちの雪乃は
"そういった趣味"のある同性の上級生からアプローチを受けることも少なくなかった。
しかし、どれにも応じることはなかった。
ただひたむきに馬とだけ向き合ってきた代償といえるだろう。

「どうだ、今日の花嫁修業はどの程度できているのか
これから確かめてやろう」


◆ ◆ ◆


3ヵ月前―――

外交官として世界中を飛び回っている雪乃の父・晴雪から手紙が届いた。
それは、秋に行われるというイシュバール王国レースへの招待状だった。
雪乃は飛び跳ねて喜び、すぐに晴雪に電話をかけたが、つながらなかった。
雪乃は大学に休暇届けを出すと、単身イシュバールへ向かった。
イシュバール王国主催のレースといえば、世界中の貴族や王族が参加する伝統あるレースだ。
それに自分が参加できるなどと、夢にも思っていなかった。
これほど名誉なことはない。

「ここがイシュバール…暑いけど、風がすごく爽やかね」

イシュバール国際空港のシートを踏んだ雪乃は、感慨深げにつぶやいた。
イルバーノは別便で輸送され、既にIIHG(イシュバールインターナショナルホースグラウンド)に
着いているころだろう。

「車は手配してありますので、すぐにホテルへ向かいましょう」

父が用意した付き人の時田が腕時計を見ながら葵をうながす。
空港前のロータリーへ着くと、何やら物々しい雰囲気が周囲を包んでいた。
何事かと案じる雪乃をよそに、時田は自らが手配した車を探そうとやきもきしている。

「…時間どおりなのに、なぜ誰もいないんだ。これだから外国は…」
「まあまあ…何か事件があったのかも。警察の人がたくさんいるみたいだし」

そのとき、白い長衣を着た男性ふたりが葵の前につかつかと歩いてきた。

「瀬川雪乃様でいらっしゃいますか」

流暢な日本語を話すことに雪乃も時田も一瞬、驚いた顔を見せた。

「ええ、そうですが…あなたは…」
「シーク・ジェラードの命でお迎えにあがりました」
「…は?」
「我々と一緒に来ていただきます。さあ、お荷物をお預かりいたします」
「ちょっと…待ってください。私たちは来週開催されるイシュバール杯に出場するために
日本からやってきたんです。これからホテルへいって、IIHGへ…」
まくしたてるようにそう訴える時田に、長衣の男は笑顔で
「では、一度ホテルへお送り致しましょう。その後で宮殿へ向かっても、今夜の晩さん会には間に合うでしょう」
「きゅ、宮殿!? 晩さん会!?」
「いったい…何が何やら…。どうしましょう、時田さん」
雪乃が困惑していると、背後から「おーい!」と叫ぶ声が聞こえてきた。
そこには見慣れた顔があった。
在駐イシュバール大使の大徳寺だ。
「ああっ大徳寺さん! ちょっと助けてください!」
時田が涙目で訴える。
「やあやあ、すまないねきみたち! いきなりのことで驚いただろう」
「この人たちは…いったい…」
「彼らはイシュバール王国のシーク・ジェラード宮殿の者たちだ。決して怪しい者ではない。
それで、きみたちはこれから王宮に滞在させていただくことになった」
「ええ!?」
「シーク・ジェラードたっての御申し出だ。断るわけにはいかん。それに、こんな名誉なことはないぞ」
たしかに名誉なことだが、いったいなぜいきなりそんなことになっているのだ。
「私も同行するから、事情は車の中で話そう。
手間をかけてすまなかったな、ラシフ」
「…いえ」
大徳寺が声をかけると、ラシフと呼ばれた男はうつむき加減で雪乃たちを車へと案内した。

「すまなかったね、いきなりのことで。
雪乃くんもよく知っているだろうが、シーク・ジェラードは中東の競走馬界の第一人者だ。
かねてよりきみの活躍をよく知っていて」
「え…シークが、私のことを…?」
「ああ、早く会いたいと言っていた。今回のことも非常に喜んでおられたぞ」
シークが自分のことを。
雪乃はこみ上げてくる感動に目頭を熱くした。


宮殿に到着した雪乃を待ち受けていたのは、信じられない光景だった。
広大な敷地の中にそびえ立つモスク、球状の屋根を戴くいくつもの建物や
アラビア建築の象徴である泉。
すべてが美しく、珍しく、雪乃は大きな瞳をくるくると動かせてラシフの後をついていった。
宮殿へついてからも車をいくつか乗り継いだ。
その間にいくつものセキュリティーが存在し、雪乃はこの宮殿の、何よりジェラードの力の大きさを知った。
これからジェラードに会うのかという実感がまだわかなかった。

「シーク・ジェーラド、雪乃様をお連れ致しました」

大きな扉の前に設けられたセキュリティーパネルを操作し、
ラシフは中にいるであろうジェラードに話しかけた。
応答はなかったが、軽快な電子音とともに扉が開けられた。

そこで目の当たりにした光景は、驚くべきものだった。
毛の長い絨毯の中央に座するのは、おそらくシーク・ジェラードであろう男性で、
それらの周囲には多くの裸の女性や男性が寝そべっているのだ。
雪乃は思わず息を飲んで顔をそむけた。

「シーク・ジェラード、瀬川雪乃様と付き人の時田様をお連れいたしました」
「…日本からよく来てくれた。歓迎しよう」

想像していた人物とはまるで違う。
端正な顔立ちの中で鋭く光る群青の瞳は、どこか冷たい。
口調も、とても歓迎しているそれとは思えない。
先ほど大徳寺の言ったことは嘘だったのだろうか。
作品名:砂漠の王の愛奴隷 作家名:宇佐美誠