鏡よ鏡
洗面台に据え付けられている鏡は大きくて、肩幅のある男の子と二人並んでも十分に映るくらいだ。まあ、そういう人と二人で鏡の前に立つことなんてここ数年ないのだけど。
私が付き合った男どもは例外なく、私の家に来るようになってしばらくすると別れを切り出してくる。何が原因かは分からないから、ここ数年家には呼ばないようにしていた。ジンクスといえば、そうだったのかもしれない。
今も一人付き合いの長くなってきた男の子がいて、最近しつこく「家に行きたい」とせっついてくるのだけど、いつもなだめすかせてはホテルで済ませていた。というか、ならそっちの家に行かせろというのだ。自分だって家に入れてくれないくせに。
いや、まあ、それはいい。
鏡だ。
私はこの鏡が何故だかひどく好きで、毎日のように磨いては、とんだ歯磨き粉の泡やら水垢やらをきれいにしていた。いつしか鏡もそれに応えてくれるようになり、私をきれいに映してくれた。これは誇張でもなんでもなく、本当に、この鏡に映った私はいつもより二倍はきれいだったと思う。
他の誰も、私が内心私よりもきれいだと思っている女友達でさえも、この鏡にかかっては、ブスとは言わないまでもだいぶ輝きを抑えられてしまうのだ。嘘だと思うなら一度私の家に来てみれば良い。
ともかく、私は、この鏡が好きだった。
しかし、二週間ほど前から、私はこの鏡のおかしさに気付くようになった。
私はもちろん、この鏡の前に朝な夕な立つのだけど、どうもずれている気がしたのだ。
ずれている、というのは、鏡自体が元々あった場所から二、三センチ横に移動したとかそういうことじゃない。いや、ある意味そうとも言えるのだけど、そうじゃなくて、鏡に映る像がちょっとずつずれていっているように感じて、実際本当にずれていたのだ。
最初は気のせいかと思った。だけど、目の端に、その鏡の位置では映るはずのない洗面所の電気スイッチが映っていたのだから、間違いようがない。
それに気づいた次の日の夜は、スイッチの横の棚に置いてあるファンデーションが鏡に映るようになった。さらに次の日はその横の乳液。そのまた次の日はその横のマスカラ。
私には、鏡の前の定位置というものがある。立っていてそこが一番しっくりくるし、また鏡もそこに立つ私を好んでいるように見えたからだ。
だから基本的に立ち位置が変わるわけではない。なのに、鏡に映る像はどんどんずれていくのだ。そして、ずれるに従って、鏡に映るはずの私もだんだんいなくなっていった。
多分あと数日したら私は完全に消えてしまうだろうと、半分になった私は思ったものだ。それが五日前のこと。
ここで不思議なのは、そうやってずれていった鏡に映る像に、その五日前から人が見え始めたということである。私の横には誰もいないはずなのに、そこに、誰かがいるのだ。
すでにだいぶ気味悪く感じていたというのに、これは決定的だった。私は鏡を外すことを決意した……のだが、なぜだか、どうも、外そうと思うと外せない。やたらと、この鏡に愛着があった頃の自分が思い出されて、「まあいいか」という気持ちになる。
そんなわけで、結局私は、鏡をそのままにしていた。
そして、最初は腕しか見えなかった誰かも、昨日見た時点では耳あたりまで見えるようになっていた。
そこで気付いた。
これは私の妹じゃないか。
私の妹は、耳に特徴的な星形のほくろがあるのだ。妹はそれがお気に入りで、ピアスの穴をあけるときもそこは外したし、ピアス自体もそれに合わせて星形にしている。
そういえば、この鏡のずれが始まったのは、妹が初めてうちに泊まりにきて少し経った頃だったように思える。
この、私しかきれいに映さないはずの鏡は、妹を映したとき、奇妙に歪んだ気がした。妹は気付かなかったかもしれないが、この鏡を知っている私にはそれに気付いた。鏡は、なんだか恥ずかしそうに見えた。
……もしかすると、鏡は私の妹を好きになったのかもしれない。私から、その主を妹に替えたのかもしれない。
それならそれで良い。例え鏡だろうと恋愛は自由だ。
でも、じゃあどうして鏡は外させてくれないのだろう。