和尚さんの法話 「五逆十罪」
一切衆生は尽くし難し。出来ないんだというが、だけど私はやりますというのが地蔵菩薩ですね。
一切の衆生を救い尽くすまで私は仏に成りませんという誓いをたててるのです。
ところが、これは出来ないということになってるんですね。
だからお地蔵様と雖も出来ない。
お地蔵様は等覚の菩薩には成ってるけどれども仏には成っていない。
『縁無き衆生は度し難し』
だからお釈迦様とか阿弥陀様とかそういう方は、お地蔵様よりもずっと後輩なんですよ。
ところがあの方々は、仏に成るという誓願を果たしてるから先に成仏してる。
ところがお地蔵様は菩薩に成ってるけど後から来た人が先に仏に成っている。
それは自分の誓願が終わらないから。
一切衆生を全部救うという誓願をたててあるから出来ないんですね。
だからお地蔵様は永久の菩薩だということになってるんですね。
次ぎの縁無き衆生は度し難し。
縁が無いと救われないということですね。
お釈迦様と雖も縁の無い者は救えないと。
それはお地蔵様でも、観音様でも、自分と縁の無い者は、いつか縁が出来るまでは救えない。
仏様との縁ですから、これも以前にお話がありましたけど、お釈迦様が道を歩いているとき、一人の老婆が道端に座っていた。
お釈迦様はその老婆の前を素通りしたんですね。
弟子たちがその老婆を見て、あんまり哀れな姿をして、不徳の限りを尽くした人なんだろうというような姿を見て可哀相だと思ったんですね。
お釈迦様は通り過ぎていくので、弟子が世尊よ、ここにこういう哀れな老婆がいます。
この老婆にお声をかけていただいて、ひとつ説法してあげるといかがでしょうかと。
するとお釈迦様は、この者は縁無き衆生だと。
では縁の無い衆生でしたら、お釈迦様のほうから縁を作っていただいてはいかがでしょうか。
これは分からん弟子やなとお釈迦様は思うたのでしょうね、それでお釈迦様は老婆の前へ来て、婆さんよと声をかけると、老婆はくるっと後ろを向いてしまった。
またお釈迦様は老婆の前へ行くと、また後ろを向く
兎に角お釈迦様の方へ顔を向けないんです。
どうだ、これが縁無き衆生だと。
それもいつかは誰かによって縁が結ばれてきて、いずれは救われるのでしょうけど、そのときは縁が無い。
この三つは仏様でも出来ないことなんだと、これを三種の不成というのです。
これは道徳的なことというよりも仏教そのものなんですけどね。
我々の日常的な行為でが、自分が可愛いというところから、善いことが出来ない。
悪いことをすると、こうなってくるわけですね。
自分が可愛い。
自分がいい物を食べたい。
いい家に住みたい。
いい着物を着たい。楽しみたいと。
ところがお金が無い。というので人の物を盗る。
と、こうなるわけです。
だから自分が可愛いと思ったときにそうなる。
極端に言ったら犯罪ですね。
犯罪にならなくても道徳的ないかんということがありますね。
仏教は、自分のためになってることはいいことないんですよね。
自分以外の人のために尽くしたらそれはいいことになるのです。
それはなにかの犠牲をはらわんといいことにならんのですね。
人のためにいいことをしようとすると、お金を出すか、なにか物質を出すか、身体を使って奉仕するか、なにか犠牲をはらわんと人のためにならんですわね。
犠牲をはらうと自分は損をするわけです。
この人生が一度きりならね、そんなアホなと、人のことばっかりして自分は死んだら終いと。
これじゃあ、味気ないでしょ。
ところがそうじゃないんです。それは大きな宝を背負うてあの世へ行けるんですからね。
だから我々はこの世だけじゃないんだと、あの世があるんだということを信じていただいて、兎に角これが大一歩です。
そう思うと少々の損も辛抱できますね。
今損をしても後で頂けるんだと思うと、貯金みたいなもんですが貯金はあるお金を出すんでしょ。
返ってくると思うから安心して出すんですわね。
だから功徳というものは必ず返ってくるんですよ。
貯金みたいにこの世で返ってくるとは限りませんが、次の世もあるんですから。
兎に角功徳は貯金なんです。必ず利子がついて返ってくる。
そういうそろばんを弾いたらいかんのですが、分かり易くいうとそうです。
いつも人のためを思うてしているとだんだんとそんなことは超越されてきて、そして仏に成るのです。
お釈迦様もお経の中に、こんなことをしたらいかん、こんなことをしなさいという、そういう損得の話がいっぱいありますよ。
一般の人にはそういう損得で説かないと分からないですから。
またそれが事実、真実ですから。
舎利弗、目連のような1250人の阿羅漢の弟子たちに説く内容と、一般の民衆に対して説くお経の内容と違いますから。
例えば、一般の人に般若心経の内容を説いたって、般若心経の中に善いこと悪いことというのはひとつも出てきませんね。
空だとか無我だとかそんなことを一般の人に説いたって、ちっとも分からないですね。
『運命はきまってる』
善いことをしなさい悪いことをするなと阿羅漢に説いてもそんなことはもう超越してしまってるしね。
そういうことで、やっぱり我々は、はじめは善悪というのは利害と密着してますのでね。
自分の利益のために相手を害すると罪になるけれども、自分を犠牲にして相手を助けるということになったら、それはもう功徳ですね。
あの世があるということを疑ったらいけません。
そして因果の道理が報いてくるということですね。
三世の因果ということです。
この世だけじゃなくて三世の因果です。これを信じていただきたい。
この世でやったことがこの世で報いることもあるけれども、この世の行いが、あの世で報いるということがあるんですよね。
これはあの世へ行ってみないと分からない。
それからこの世の行いの結果があの世へ行って、あの世で報いなくて次ぎにまた輪廻して生まれてくる。
その一生の間に、この世での行いが報いてくる。
そういうのが全く分からないんですね。
それが運命というものなんですよ。
運命といいますとだいたい決まってるんですよ。
生まれたときからだいたい決まってるんです。
決まってるから手相とか人相とか八卦で分かるんです。
どうして分かるかというと、決まってるからですね。
どうして決まってるかというと前の世で決まってるんですね。
この運命ということをよく観察してますと、因縁ということがよく分かるんです。
運命は決まってる。
どこから決まってきたのか、決まる原因がなければなりませんね。
それはこの世で原因が無ければ前世で。
前世といってもひとつや二つじゃない、ずーっと前の世も続きますのでね。
順現業。これはこの世でやってこの世で報いる。
順次業。この世でやって、あの世で報いる。霊界で受けるんですね。
順後業。これは、この世でやって、あの世で報いないで、今度この世に生まれてきたときに報いる。
作品名:和尚さんの法話 「五逆十罪」 作家名:みわ