二人の息が消えるまで
このヤマビコという名のカフェは、家から歩いて十五分くらいの場所にあって、雰囲気が良いと評判の店ではあるのだが、僕は今まで来たことがなかった。美耶子にはそれが意外だったらしく、予定を合わせる際のメールには『脩二にしては珍しいね』と書かれていた。
それは、より家に近いところに良く行く店があるからという理由と、単なる天邪鬼という性格の問題がある。すでに有名な店と、あまり知られていないが雰囲気の良さそうな店なら、後者の方が開拓しがいがあると思う。
ただ、ヤマビコは、来てみればなるほど良い店だった。
窓側には燻されてくすんだような色合いの木製テーブルとベンチ椅子があって、店の中央には、原木をそのまま加工したふうの広いダイニングテーブルがある。反対側のカウンター上には数種類の珈琲豆が置かれてあり、その横には手回しのミルがかわいらしく並べられていた。壁際の棚に所狭しと置かれているのは、カップとソーサー、それに紅茶の缶だ。端の方には大きな焙煎機がある。
壁のクロスは白というよりは薄いベージュだ。西側には暖炉が備え付けられている。ちゃんと機能するようで、今も火が入っていた。
吊り下がり式のランプはすでに、淡い色彩に染まっている。シェードに全体を覆われたその明度はだいぶ抑えられていて、全てのテーブル上にあるキャンドルが、ゆらゆらと頼りない光を投げかけている。
店内には常に薄く、そして時折深く満たされるような珈琲の香りが漂っている。
「……今度来たときは珈琲を頼まないと。」
「そういやなんで紅茶なの? ここ、珈琲美味しいって言われてるし、そもそも脩二は珈琲党じゃなかったっけ?」
僕の独り言が耳に届いたらしい。美耶子の体勢は変わっていないが、こちらを見ているようだった。僕は手元のカップから目を離さずにいた。
「なんとなく。」
「ふーん……美味しかった?」
「多分。香りが良いし。そっちはどうさ?」
「ふふーん、どうでしょう?」
「ああ、美味しいんだ。」
「何も言ってないのに。」
「大体わかるよ、言い方で。」
太陽はもう沈むのだろう。店内の様々な照明が主張し始める。
僕達はそれからも、ぽつぽつと他愛のない話をした。
東京で働いている共通の友人の話。
サラダに合うドレッシングは何か。
職場の愚痴。
昔作ろうと言って冒頭だけ考えた推理小説のこと。
こうやって話していると、自分が今どこにいるのか分からなくなるときがある。美耶子とは、いつどこで会っても、時間が続いているからだ。例え一年会わなかったとしても、きっと当たり前のように、空白を重ね合わせていくだろう。
中学の頃から比べれば、僕らはたくさん変わっているに違いない。靴のサイズだって変わったし、健康を気にするようになった。あの頃の大人が、決して大人ではなかったこともわかった。
僕らの関係だって、ずっと同じだったとは言わない。
月によって潮の満ち干が起きるように、僕らは思春期を過ごし、お互いを意識し、もしくは意識しないようにして、大体同じような平行の道を歩いてきた。その道が繋がったり、離れたり、見えなくなったり、そんなこともあった。
そうして、結局僕らは隣り合って歩いている。お互いの顔が見えるくらいで、同じ時間にある、違う道を。
きっとありふれた話だ。
特別なことなど何もない。
言えないことも言わないこともたくさんある。
全てわかって欲しいなんて狂おしい気持ちももうない。
何の気負いもてらいもなく、自然に呼吸をできる相手は、僕にとっては美耶子だったという、そういう話なのだろう。
ただ、それももう終わりなのかもしれない。
まだカップをいじっている彼女を、透かし見るように眺める。
彼女の意識の水平線の先に、沈もうとしている青色の小さな球体を見た気がした。それは少し欠けているようだった。
手元のカップはすでに冷たくなっている。
全て、僕の妄想でしかないけれど。
するすると流れる小さな光の列が、窓の外を彩っていた。僕のくだらない思いは、霧散してその光の方に吸い込まれていった。
「そろそろ出る?」
「そだね。」
僕らが店に入ったときにいた客は、もういなくなっていた。時間は前にしか進まない。
いつも通り別々に会計を済ませ、外に出た。予想以上に冷たい空気が火照った身体を包んだ。奥の方までも、しん、と落ち着かせてくれるようだった。
美耶子は自分の身体を抱くようにしている。
店からもれる光が、その横顔を照らしていた。
声をかけたいような気がして、でも、やめた。多分僕が何かを言ったとしても、何も変わらない。それに、僕の言いたいことを、彼女がわからないはずがないのだ。
美耶子の白い息が広がって消えていく。
「じゃ、私、車だから。」
「うん。道路凍ってるかもしれないし、気をつけて。」
「ありがと。……そういや、再来月の麻子の結婚式、やっぱり行けないの?」
「仕事だからね。」
「休め……ないか。ないよね。」
「主催コンサートじゃなければ良かったんだけど。」
「……私のは、来れる?」
「十二月のいつ?」
「十一日。土曜日。」
「えーと……確か、絶対休めないっていうイベントはなかったと思う。後でちゃんと確認するけど、出れるよ。てか、出るよ。美耶子の結婚式だし。」
「ほんと? ……良かったー。そうだよね、うん。脩二が出なくてどうすんだって感じだもんね、ホントに。」
「そりゃどうも。」
「はははー。近くなったら招待状送るから。楽しみにしてて。」
「はいよ。」
「じゃあ、またね。」
「うん。また。」
そうして、美耶子の車は、窓から見えた流れる光の一つになった。最後に手を振ってしまえば、もう、どれが彼女の車かもわからない。
もしかしたら、僕が式に出られるかどうかを、彼女は一番聞きたかったのかもしれない。美耶子はそれが不安で、ずっと緊張していたのだろうか。
「心配しなくても、ちゃんと出るよ。」
細く白い息が、同じように空に消えていった。
夜気と光の匂いを吸い込んで、僕は歩き始めた。
家へ向かう路地を曲がるまで、平行に流れる光の筋は、途切れることがなかった。
作品名:二人の息が消えるまで 作家名:紺野熊祐