二人の息が消えるまで
「結婚することにしたんだ。」
美耶子がそう切り出したのは、僕らがヤマビコというカフェに入って三十分くらい経ってからのことだった。
季節はもうまもなく春へと変わる四月最初の週で、札幌の街中にはまだ雪が積もっていた。ただ、すでに汚く黒く染まっているそれは、急に暖かくなってきた昼の気温に負けてべしゃべしゃに崩れかかっており、いたる所に大きな水溜りを作っていた。
夕方の道を行く人々は服装がまばらで、明らかに冬用のロングコートを着ている人もいれば、淡いピンクのストールを羽織って少し寒そうに歩いていく人もいた。同じなのは、誰もが歩きづらそうにしていることだろうか。
車道に溜まった水を飛び散らせないように、泥の水玉をつけた車の群れがゆっくりと進んでいる。この時期はどうしたって汚れてしまうので、洗車をする人はほとんどいない。
僕は、動き続ける外の風景から、美耶子に目を移した。こちらをじっと見ながら、手元の珈琲カップをいじっている。手が動くのは、昔から変わらない彼女の癖だった。
「そう。」
「うん。」
「いつ?」
「十二月くらい。」
「良かったね、おめでとう。」
「……驚かないの?」
「驚かないよ?」
微笑んで見せると、ようやく美耶子の顔にも笑みが広がった。
美耶子は一体何を緊張していたのだろう。もうすでに十五年くらいの付き合いになるが、そういうところは未だに良くわからない。今さらお互いに緊張するような間柄でもないというのに。
美耶子は底の方に少しだけ残っていた珈琲を飲み干すと、ほっとしたような表情で窓の外に目をやった。僕もそちらを見ると、さっきとは違う人と車が、同じように流れて行くところだった。ボンネットに反射した西日が一瞬目に飛び込む。
背丈の違うビルたちを見上げると、空には雲がなかった。陽射しは暖かかったが、気温は実際そこまで上がっていなかったのかもしれない。今日は天気予報を一度も見ていなかった。
窓から目を離し、目の前に置かれた紅茶を飲む。
今日何度目かわからない、同じ動作。
美耶子といると、今みたく店の外を眺めたり、雑誌を読んだり、意味もなく手近なものをいじったりする頻度が増える。
二人でいるのが気まずいとか、手持ち無沙汰とか、そういうことではない。無理に話す必要があまりないと言えば近い気がする。
すっとした、柑橘系の果物のような香りが鼻を通り抜けていく。紅茶の種類は確かアールグレイだった。紅茶について何か特別知っているとか、こだわりがあるとか、そういうことはない。ただ、この香りを、最近好きになったのだ。
「驚かないよね、脩二は。」
まだ暖かいカップを楽しんでいると、美耶子がつまらなそうにそう言った。
「話しがいがないよね。」
さっきまで緊張していたのに、とは言わなかった。言えば怒るに決まっているからだ。
「今さら言われても。」
「そうだけどさ。」
「驚いて欲しかった?」
「んー、そりゃねえ、驚いて欲しいって気持ちもあるんだよね、こういう話するときは。」
「それはご期待に沿えず。」
「ほんとだよ。」
そう言ったあと美耶子は、まあ脩二だしね、と付け加えた。手は変わらず、カップを握ったり離したり、くるくると動いている。
「似たようなこと、高校のときも話したことなかった?」
もう十年以上も前の記憶が不意にこぼれてくる。
「そう?」
「ほら、えーと、高一、いや二年生のときかな。中武先輩と付き合ってるとき。」
「あーあーあー……あったねえそんなこと。あったあった。懐かしい。」
当時、美耶子は、中武という部活の先輩と付き合っていたのだが、その先輩が浮気しているかもしれない、と僕に相談してきたのだった。
僕はそもそも、彼女が中武先輩と付き合っていることは知らなかった。逆を言えば、それくらい彼女が上手く隠れて付き合っていたとも言える。確か、知っていたのは当人たちを除けば麻子だけだったはずだ。
相談を受けたときにその事実を知った僕は、しかし、「中武先輩と付き合ってるんだけど……」という彼女の言葉に、驚いたり、取り乱したりすることもなく、一言「それで?」と返しただけだった。そして、それがどうやらひどく不満だったらしい美耶子は「それだけ?」と急に怒り出したのだ。「少しは驚いてくれないと話しがいがないじゃない」と。
「ほんと、昔から変わらないよね、そういうとこ。」
「美耶子もね。」
互いに言い合って、僕らは同時に片頬をついた。
店の、やけに古びた柱時計の針は、今にも泣きそうな口の形をしていた。
作品名:二人の息が消えるまで 作家名:紺野熊祐