和尚さんの法話 「煩悩」
『我』
仏教は善と悪ですね、善悪はもう既に超越してしまって、その上にあるものが、淨汚(じょうえ)。
善悪は、これは道徳ですね。
淨汚とは、心の清い心と汚れた心ですね。
善は勿論清い心ですけれども然しながらその同じ善でもですね、喜んで善いことをするという善と、嫌だけれども仕方が無いからするという善いことがございますよね。
嫌嫌でもしたらそれは善いことだから善ではありますけれども、仏教ではその嫌嫌というのではなくて、善いことをするのが喜びになると、そういう境地ですね。
善いことをしたいんだけれどもなかなかし難い、仕方が無いからやっぱり善いことをしましょうというふうに抵抗を感じながら善いことをするというのは、なにがそうさせるのかいいますと、仏教ではそれを煩悩といいます。
煩悩というのは自分を守ると。自分というのが根本になってくるのですね。自分というのが無かったら煩悩は無いんです。
だから仏教は無我になれ、無我になれと言いますにはそこなんです。
私たちはどうしても「我」ということから離れることが出来ない。
自分が可愛い。
仏教には我愛というのがありますね。
我愛。我癡。我慢。我見。これは根本煩悩となってます。
これは四大煩悩とも言いますが、順序はどうでもいいのですが、皆我というのが付いてます。
私たちは自分が偉く見せたい。
自分は他人より優れてるんだ。と、いうふうに我、我、我となりますね。
それで、なになにをしたい、なになにをしたい、見たい、食べたい、行きたいと、そういう希望というのは皆それは自分では意識してないけど自分が可愛いんですわね。自分が満足したい。
ということで、仏教の煩悩の根本は「我」ということです。
だからお釈迦様は無我になれ、無我になれとおっしゃるわけですよね。
ところが、これがなかなか無我になれといったって無我になれるものじゃない。
これはやっぱり禅をやりませんと。
極楽往生する方は別ですよ。
極楽へ行ったらもう自然と、無我の教えも聴き、修行もいろいろさせて頂けるわけですから自然に無我になっていくわけです。
現実の話しとすれば、我々は、この世は汚土(えど)というんですよね、仏教では。極楽は浄土で、この世は汚土と言います。
煩悩の汚れた世界だというんです。
結局、我々は自分というものがあるがために、欲するか欲しないかも知らず知らずに自分のために、ああしたい、こうしたいと、善と悪はそこから生まれてくるわけです。
結局その我が可愛いからですね。
その「我」を消すということになってくると。
兎に角その我が消えないと、煩悩は無くならないんですよ、仏教の理論からいったら。
我そのものが煩悩ですから、その我があると我愛と。
それから我慢というと普通皆さんは、あの人は我慢の強い人だ、いい人だといいほうへとりますね。我慢強いと言ってね。
ところがこの我慢の下へ心を付けると、慢心となる。
これは驕(おご)りがあるということですね、慢というと。
で、我慢というと、痛いんだけど痛くないと。それは我慢というよりも、辛抱ですね。
忍という言葉が仏教にあるんですが、耐えるということ。
忍辱というのですが、忍辱というのは恥ずかしめを忍ぶというようなことになるのですが、要するに辛抱することなんです。
例えば、寒中滝に打たれると。
それは修行のためですね。
修行のために寒いのを辛抱する。
ところがその辛抱の中にもいろいろありますが、代表的に忍辱をいいます。
人から恥ずかしめを受けるのを対面として、それを耐え忍んでいるということです。
六波羅蜜という言葉がございますよね、波羅蜜というのは般若波羅蜜とありますが、波羅蜜というのは、分かり易くいいますと悟りのために修行なんです。
それに般若波羅蜜とか、布施波羅蜜とか、それが六つあるんです。
その中に忍辱というのが入ってあるのです。
六波羅蜜を六度といいますが、度にさんずいを付けた方が分かり易いと思うんです。
六つの彼の岸へ、彼岸へ渡る道ですね。
布施。布施とうことは出来ない、し難いということは、所謂欲でしょ。
我があるから、あの人より自分のほうが可愛い。
これをあげたら損をする、自分が困る、だから出来ないと、こういうことですね。
布施が出来ないというのを簡単に言うとそうですね。
それは自分が可愛いから出来ないんですね。
そういうことを忍んで修行をして修行をして、無我の境地になってきたら喜んで出来る。
自分が損であろうが徳であろうが兎に角、善いことは喜んで出来るようになる。
自分のことは考えてない。無我になったらそういうことです。
『禅』
その禅でそうしてやってるのは、心を消していくんですね。
自分というものを失くしてしまう。そうしたら無我の境地になれる。
それを絶えず無我になり無我になり座っては無我になりとしてたら、こんどは日常生活の中にも習慣になって自然にその生活になってくるんですね。
人から見たら同じ生活をしてるけど、本人さんの境地というと、高くなるというのか深くなるというのか、そういうために禅をやるわけなんです。
我を消すために。
そういうことを今の禅宗の人たちは言わないですけれども、禅宗で偉い坊さんはたくさんありますけど、今の坊さんは失礼ですけどだめですね。
あの世を認めないでしょ、これは根本的な間違いです。
あの世を否定して、それを前提にして法を説いてもそれは全部間違いです。
あの世はあるんだから、あるものを無いといって説いても前提が間違ってるのだから全部間違いになりますね。
今から三百年にはなりませんけれども、二百五十年ほど前に白隠という禅宗の坊さんがありまして、有名な坊さんですね。
この方は、本当の坊さんだなあと思いますね。
この方は、だいたい地獄が怖くて坊さんになったという人だということです。
地獄が怖くて、自分が地獄へ落ちないようにするには、どうしたらいいか。
というようなことから坊さんになったという人ですから、勿論あの世を認めていますね。
禅宗では、公案というのがあるんですよね。この公案というのはですね、この公案の解釈も違いますね。
間違ってる。
公案というのは、どういうのを公案というのかといいましたら、我々の日常生活の全く相容れない理屈です、理論です。
例えば、こういう言葉があります。
「一即一切」
一切はもの凄い数を現わしたものですが、一は一です。
即というのは、イコールということですね。
或いはこういう言葉もございますね。
「無一物中無尽蔵」
この無尽蔵というのは、無数にあるということですね、尽きない。
尽きる事の無い蔵で、たくさんあって無尽蔵だということですね。
その逆で無一物。何にも無い。何も無い中に、無数の物があるということです。
一即一切と同じですね。だいたいこういうことを考えると、お師匠さんが弟子に出すこういうのを公案というのです。
これは我々の日常の判断では、こんなものは有り得ないですね。
この世の中は、一は一、二は二、三は三でしょ、そうでなければ科学は成り立ちませんね。
仏教は善と悪ですね、善悪はもう既に超越してしまって、その上にあるものが、淨汚(じょうえ)。
善悪は、これは道徳ですね。
淨汚とは、心の清い心と汚れた心ですね。
善は勿論清い心ですけれども然しながらその同じ善でもですね、喜んで善いことをするという善と、嫌だけれども仕方が無いからするという善いことがございますよね。
嫌嫌でもしたらそれは善いことだから善ではありますけれども、仏教ではその嫌嫌というのではなくて、善いことをするのが喜びになると、そういう境地ですね。
善いことをしたいんだけれどもなかなかし難い、仕方が無いからやっぱり善いことをしましょうというふうに抵抗を感じながら善いことをするというのは、なにがそうさせるのかいいますと、仏教ではそれを煩悩といいます。
煩悩というのは自分を守ると。自分というのが根本になってくるのですね。自分というのが無かったら煩悩は無いんです。
だから仏教は無我になれ、無我になれと言いますにはそこなんです。
私たちはどうしても「我」ということから離れることが出来ない。
自分が可愛い。
仏教には我愛というのがありますね。
我愛。我癡。我慢。我見。これは根本煩悩となってます。
これは四大煩悩とも言いますが、順序はどうでもいいのですが、皆我というのが付いてます。
私たちは自分が偉く見せたい。
自分は他人より優れてるんだ。と、いうふうに我、我、我となりますね。
それで、なになにをしたい、なになにをしたい、見たい、食べたい、行きたいと、そういう希望というのは皆それは自分では意識してないけど自分が可愛いんですわね。自分が満足したい。
ということで、仏教の煩悩の根本は「我」ということです。
だからお釈迦様は無我になれ、無我になれとおっしゃるわけですよね。
ところが、これがなかなか無我になれといったって無我になれるものじゃない。
これはやっぱり禅をやりませんと。
極楽往生する方は別ですよ。
極楽へ行ったらもう自然と、無我の教えも聴き、修行もいろいろさせて頂けるわけですから自然に無我になっていくわけです。
現実の話しとすれば、我々は、この世は汚土(えど)というんですよね、仏教では。極楽は浄土で、この世は汚土と言います。
煩悩の汚れた世界だというんです。
結局、我々は自分というものがあるがために、欲するか欲しないかも知らず知らずに自分のために、ああしたい、こうしたいと、善と悪はそこから生まれてくるわけです。
結局その我が可愛いからですね。
その「我」を消すということになってくると。
兎に角その我が消えないと、煩悩は無くならないんですよ、仏教の理論からいったら。
我そのものが煩悩ですから、その我があると我愛と。
それから我慢というと普通皆さんは、あの人は我慢の強い人だ、いい人だといいほうへとりますね。我慢強いと言ってね。
ところがこの我慢の下へ心を付けると、慢心となる。
これは驕(おご)りがあるということですね、慢というと。
で、我慢というと、痛いんだけど痛くないと。それは我慢というよりも、辛抱ですね。
忍という言葉が仏教にあるんですが、耐えるということ。
忍辱というのですが、忍辱というのは恥ずかしめを忍ぶというようなことになるのですが、要するに辛抱することなんです。
例えば、寒中滝に打たれると。
それは修行のためですね。
修行のために寒いのを辛抱する。
ところがその辛抱の中にもいろいろありますが、代表的に忍辱をいいます。
人から恥ずかしめを受けるのを対面として、それを耐え忍んでいるということです。
六波羅蜜という言葉がございますよね、波羅蜜というのは般若波羅蜜とありますが、波羅蜜というのは、分かり易くいいますと悟りのために修行なんです。
それに般若波羅蜜とか、布施波羅蜜とか、それが六つあるんです。
その中に忍辱というのが入ってあるのです。
六波羅蜜を六度といいますが、度にさんずいを付けた方が分かり易いと思うんです。
六つの彼の岸へ、彼岸へ渡る道ですね。
布施。布施とうことは出来ない、し難いということは、所謂欲でしょ。
我があるから、あの人より自分のほうが可愛い。
これをあげたら損をする、自分が困る、だから出来ないと、こういうことですね。
布施が出来ないというのを簡単に言うとそうですね。
それは自分が可愛いから出来ないんですね。
そういうことを忍んで修行をして修行をして、無我の境地になってきたら喜んで出来る。
自分が損であろうが徳であろうが兎に角、善いことは喜んで出来るようになる。
自分のことは考えてない。無我になったらそういうことです。
『禅』
その禅でそうしてやってるのは、心を消していくんですね。
自分というものを失くしてしまう。そうしたら無我の境地になれる。
それを絶えず無我になり無我になり座っては無我になりとしてたら、こんどは日常生活の中にも習慣になって自然にその生活になってくるんですね。
人から見たら同じ生活をしてるけど、本人さんの境地というと、高くなるというのか深くなるというのか、そういうために禅をやるわけなんです。
我を消すために。
そういうことを今の禅宗の人たちは言わないですけれども、禅宗で偉い坊さんはたくさんありますけど、今の坊さんは失礼ですけどだめですね。
あの世を認めないでしょ、これは根本的な間違いです。
あの世を否定して、それを前提にして法を説いてもそれは全部間違いです。
あの世はあるんだから、あるものを無いといって説いても前提が間違ってるのだから全部間違いになりますね。
今から三百年にはなりませんけれども、二百五十年ほど前に白隠という禅宗の坊さんがありまして、有名な坊さんですね。
この方は、本当の坊さんだなあと思いますね。
この方は、だいたい地獄が怖くて坊さんになったという人だということです。
地獄が怖くて、自分が地獄へ落ちないようにするには、どうしたらいいか。
というようなことから坊さんになったという人ですから、勿論あの世を認めていますね。
禅宗では、公案というのがあるんですよね。この公案というのはですね、この公案の解釈も違いますね。
間違ってる。
公案というのは、どういうのを公案というのかといいましたら、我々の日常生活の全く相容れない理屈です、理論です。
例えば、こういう言葉があります。
「一即一切」
一切はもの凄い数を現わしたものですが、一は一です。
即というのは、イコールということですね。
或いはこういう言葉もございますね。
「無一物中無尽蔵」
この無尽蔵というのは、無数にあるということですね、尽きない。
尽きる事の無い蔵で、たくさんあって無尽蔵だということですね。
その逆で無一物。何にも無い。何も無い中に、無数の物があるということです。
一即一切と同じですね。だいたいこういうことを考えると、お師匠さんが弟子に出すこういうのを公案というのです。
これは我々の日常の判断では、こんなものは有り得ないですね。
この世の中は、一は一、二は二、三は三でしょ、そうでなければ科学は成り立ちませんね。
作品名:和尚さんの法話 「煩悩」 作家名:みわ