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雌雄の神話

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 円山は北一条通りにある第一鳥居を通り抜け、私たちはH神宮へと向かっていた。鳥居を抜ければそこはすでに境内であるのだろうが、ここはまだその名から想起されるような静謐さを持ち合わせてはいない。車が通り、人が歩き、酒をふるまう店があり、騒々しい。
「歩くのも久しぶりだな。」
「そうね。」
 私は、私の少し後ろを歩いている妻と話しながら、ゆっくりと歩みを進めた。
 今日は快気祝いだった。私たちは少し前、私が運転する車で交通事故に遭い、怪我を負った。幸いにしてどちらも軽い怪我で済んだのだが、子供たちが言うので、念のため二日ほど入院していた。妻と隣り合わせて病室で寝泊まりするというのは何とも不思議な心持ちがしたものだが、忙しい私たちには良い休暇だったのかもしれない。
 入院中、私たちはある約束をした。約束というよりは確実な予定だが、それは、退院したら快気祝いも兼ねて二人で安全祈願に行くというものだった。
 別に私は神仏を信じているわけでもないし、妻もそうなのだが、事故に遭ったのがその第一鳥居の近くだったのだ。それで、そんな気まぐれを起こしたのかもしれない。
 退院して二日後、つまり今日、私たちはまず回復を祝って円山にある瀟洒なレストランへと外食に出た。こんなことも普段はほとんどしないのだが、先頃あった交通事故からして滅多にないことである。どうせなら一連の出来事を全て珍しいことをしてみても良い。
 すばらしい料理を堪能して店を出ると、あたりにはすっかり闇が落ちていた。
 流れる光と動かぬ灯り。
 私たちはそのまま歩き、第一鳥居を通り過ぎて、本殿へと向かっていた。
 北一条通りと環状線が交わるところで、妻が弾んだ声を出した。
「今日は星がきれいね。」
 私も空を見る。そこには無数の星が煌めいていた。こんな街中では見ることのできない、数万もの遠い星。どうしてか、その光は、月にも人工の灯りにも遮られることがないようだった。
「あれ。」
 後ろから妻が上を指さす。その方向には見事な大三角が描かれていた。そのまま妻は私に聞く。
「ねぇ、琴座の話って知ってる?」
「琴座の? 神話かい? いや知らないよ。」
「じゃあ教えてあげる。」
 そして妻は話し出した。
 昔、あるところにオルフェウスとユウリディケという夫婦が暮らしていたそうだ。二人はとても仲の良い夫婦で、オルフェウスは琴の名手だった。しかし幸せは突如終わりを告げた。ユウリディケが亡くなってしまったのだ。オルフェウスは大層嘆き、悲しんだ。どうしても妻を取り戻したかったオルフェウスは冥土の神プルートの下へと赴き、妻を返して欲しいと訴え、琴を奏でた。その音に心を動かされたプルートは、ユウリディケを返そう、と言った。ただし、それには一つだけ条件があった。それは、ここから地上へ戻るまでの間、決して後ろを振り向いてはいけないというものだった。
「後ろには、必ずユウリディケがいる。だからそれを信じ、振り返ってはならぬ。しゃべってもならぬ。」
 そう、プルートは言ったそうだ。
 オルフェウスは喜び、地上への道を歩いていった。確かに、後ろには妻の気配があった。
 彼は振り返る気など毛ほどもなかった。約束を違えなければ、妻は自分の下へ戻ってくる。冥土の神はそう言ったのだ。しかし地上の明かりが見え、長い道が終わろうという頃、もう大丈夫だろうとオルフェウスは振り返ってしまった。嬉しさと、安堵が約束を破らせたそうだ。
 後ろには、誰もいなかった。ついてきていたはずの妻は、跡形もなく消えてしまった。
 地上に戻ったオルフェウスは自らの過ちを嘆き、琴を弾き続けた。
「その琴をゼウスが空にあげたのが、琴座。」
 妻は、そう締めくくった。
作品名:雌雄の神話 作家名:紺野熊祐