クロという青年
青年の話
よぉ、久しぶり。…ん、なんだその顔。
…あぁわかっただから絶対触んな。触んなって!
あんたに心配されなくったってこの程度、致命傷にゃなりっこねぇよ。治るのは時間かかるかもしんねーけどな。
…そうだな、話してやるよ。俺がさっき何してたか。
これは絶対面白いぞ。なにしろ、普段驚くほど余裕綽々の輩が逃げに徹するっつー珍しい話だからな。
あ?…いいんだよ、たまには。人に失敗談とか話して反省すんのも必要だろ?
では早速。間抜けなモドキと幸運な本物の一時のふれあいをどうぞご覧あれ。ってな。
「お、思ったより美味そうだ」
時は真夜中。たった今収穫した魂を目の前に、青年が嬉しそうに囁いた。
それは、青年が数日をかけて依頼を完遂した“謝礼”であり、実に数週間ぶりの“御馳走”でもあった。
それは、青年のこのところの苦労に見合うだけの質を持った魂であった。
「さて、では早速」
いただきまーす、とそれを口元に運んで─
「…ん」
動きが止まった。
風もないのに空気が揺らぐ。気配が走る。
それは独特の緊張感。
「あーすっげぇ嫌な予感…」
青年は、不釣り合いな緩い口調で状況を憂いた。
その時点では考えてすらいなかったのだろう。
気配が目の前に集束するとは。
「─!」
揺らぎがぴたりと停まる。下からそれが浮かび上がってくる。
あれよという間に、突如出現した影は目線ほどの高さにまで伸び上がり、人のような姿になる。
真っ黒いローブの内に、何もない漆黒。この世界の“それ”の正装だろうか。
「…お前まさ」
待ってやる義理はない。
“それ”が目の前のモノを知覚し、言葉を発し始めたときには既に青年は駆け出している。
「あっ!ま、待て魂喰らい!」
「誰が待つか!」
全力疾走のまま叫び返し、持った魂を躊躇いなく投げ捨てる。
死神は魂を回収するもの。追っ手が一瞬でもその作業に移ることを狙ってのことだ。
「…」
「ってちょ、てめぇ!」
しかし死神は投げられたモノが目線に入らなかったのか、そのまま真っ直ぐ追い掛けてくる。
その動きを見て、青年はすぐに理解した。
「…違う。あいつ、手柄目当てだ」
つまり、相手は魂をあえて無視したということ。
青年は舌打ちをする。経験上、手柄や功績に貪欲な奴ほど厄介であるからだ。
そして、相手は手柄を目の前に、自身の最重要職務を放棄するような輩だ。貪欲さは言うまでもない。
出会ったときの反応の遅さから、相手は経験が薄いことが伺える。自分のすぐそばに現れたのは単なる偶然だろう。
ビギナーズラックと言うやつか? 青年は苦い顔のまま、そう状況を整理した。
手の内の傘を見る。
「…」
移動の魔法は使えない。このところの短期間での過剰使用が祟って、魔力の残量が極端に減っている。
今使っては、何処に飛ばされるか分かったものではない。
安全に移動できるだけの魔力が溜まるまで、この世界からは出られない。
「…だっ!」
一つ吠え、ぐっと握り締めた傘の柄を地面に叩きつける。
閃光が疾走る。
「ぎゃっ!?」
(目があるのかいまいちわからない)死神に目眩ましを贈りつけ、間近のビルに飛び込む。
無人のビルに、駆け上がる軽い音と荒れた息遣いが響いた。
二階分を一気に駆け上がった青年は、一番奥の部屋に飛び込んでその壁に体を預ける。
「はぁっ、はぁっ、…くそ、マジで面倒臭ぇ」
そのまま座り込みそうになる体を無理矢理引き起こし、壁を伝いながら奥の方、窓の方へと進む。
すっと外を見る。夜の街は暗く静かで、自分たちとその状況だけが異質だった。
そして―それが来た。
「っ…」
荒かった息がひゅっと静まる。
冷たい、痛い気配。音はせずとも、その重い空気でわかる。
この部屋の、すぐ外にいる。
ごくり、意識せず喉が鳴った。
そして、
がつん!
その音を聞いた瞬間、
「ふっ」
青年は短く息を吐いて、窓の向こうに飛び下りた。
一瞬、気配が肉薄し、すぐにまた遠くなる。
「痛っ…!」
落下はすぐに終わり、青年は見事に受け身に失敗する。しかし動きを止めることはなく、飛び出したばかりのビルに再び飛び込む。
すぐに体勢を立て直し、今度は傘の切っ先を部屋の床に突き刺した。
ずぶり。大した抵抗もなく、傘がその下の地表に達する。
唐突に夜道に響き始める足音。すぐ上から降りてきた気配が、それを追って離れていく。
気配が遠く離れるのを待って、ゆっくりと青年は立ち上がった。
「…はっ。この程度で騙されるとは、やっぱ新人は新人ってことか」
頬を拭う仕草を見せ、傘を地面から引き抜く。
「さて…と。それじゃ、しばらく何処かに」
ひゅん。
突如目の前に現れる、巨大な鎌の刃。惜しいなぁ、の声。遅れて頬に走る痛み。
すべてを一瞬で知覚し、青年はくたりとその場にへたり込んだ。
「あ…ぁ」
「…あ、いやいや何をしゃがんでんだよ。立てよ魂喰い」
死に神が、青年の襟首をぐいと掴んで引き上げる。
「あ、魂ないくせに重いなーお前」
「…」
「…お前さ、幻聴なんかで死に神を騙せると思ったの?相手は神様だよ?」
「…るせぇ」
「…あ?」
「うるせぇんだよこのガキが!」
吠えた青年は死に神の腕を振り払い、そのローブの真ん中に勢いよく傘を突き刺す。
「な…!」
「油断してるからだ」
深々と突き刺さったはずのそれは、しかしあっさりと脇へすり抜けた。
「…なんてな」
「! しまっ」
次は自分の番だとばかりに死に神が鎌を振り上げる。
堅い鎌の柄で思い切り腹を突かれ、青年の身体が宙に舞った。
ぶつかった壁に、小さな亀裂が走る。
「がっ…!」
「…お前、重いんだか軽いんだかわかんないな。壁まで飛ぶとは思わなかったぞ」
「痛…」
げほげほと咳き込んだ口から、黒。
「そもそも、驚きはしたけどそんな攻撃効かないんだよ。追い詰められておかしくなったか?」
「…わかってるさ」
「…あ?」
青年が傘に頼りながらゆっくりと立ち上がる。
「だって…俺は攻撃したつもりはねーし?」
─にやりと口のはしを歪めながら。
「はぁ?……まさかっ!」
傍目にはわからない。わかりっこないのだが、死に神は気づいてしまった。
青年の武器に、必要なだけの魔力が溜まりきったのだということに。
「ご協力ありがとう…お馬鹿さん」
「ま、待て!」
傘をくるりと一回転。
黒い手が触れる寸前、その身がふわりとかき消えた。
どうだ、面白かったろ?
あ?…だから自虐じゃねぇっての。反省会だよ反省会。迂濶だった事に対する、な。
つーか新人なのに妙に勘がいいのってすげー迷惑。新人は新人らしく騙されてろよな!
…まぁでも、少なくともあの阿呆は今頃、上司にこっぴどく叱られてるだろうな。俺を取り逃がした上、魂も回収出来なかったんだから。
ん? あぁ、もちろん喰ってきたよ。
だって、相当頑張って作り上げたデザートだったんだぜ? 何度もいろんな世界行ったり来たりして、時間だってたっぷりかけてさぁ…持ってかれなかったんならありがたく頂戴してくるっての。
ざまぁみろだ、あの阿呆。
あ、ちなみにこの傷もらったあとでへたったのは演技だからな。