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和尚さんの法話 「自殺願望者に告ぐ」

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『今日の自殺願望者』

最近は、自殺をなさる方が非常に多いように思います。
いつだったか、樹海で自殺をなすった方の遺体を収容する場面をテレビでありましたね。
警察官とか消防署の方とか、警察犬の犬も使ってね。

これから死にますという方と対面をしたことはございませんので、大きなことは言えませんが、願望者はあったことはあったんですね。
あったんですが、和尚さんが一方的にお話するばっかりで、向こうさんは黙ってたように思うのです。
印象に残ってないところをみると、どうもそんな具合ではなかったかと思うのは、和尚さんの寺へ相談の方が見えますね。
で、和尚さんはどういうご用件で、と。
先にご用件を聞いて、それからご相談に応じるわけですけれども、その方は黙って座っていて、和尚さんは卦をたてて、あなたは今、こういう問題で来てるんと違いますかと聞きまして、それから問題がほぐれてきたんですね。

その問題が分かったというのは、この人は自殺を考えてるんじゃないかと思ったそうです。
それであなたは死ぬつもりじゃありませんかとお聞きすると。

しばらく黙ってうつむいてたんですが、はい、そうです、と。

それで、それはいけませんということで、仏教の話をいろいろしましたそうです。

それに対して相手の方が反発をするとか、自分の意見を出したというようなことはなかったんじゃないかということです。

まあ、そういう方々の心理状態を推理して、想像してそして仏教の話をさせて頂くしか方法はないのですが。

ずっと、昔に大正か明治の頃に藤村操という人がありましたね、哲学をやってて人生は分からんと、結局人生分からん。哲学何するものぞと、言うて華厳の滝から飛び込んだんですね。

「すでに巌頭(がんとう)に立つに及んで胸中何等の不安あるなし始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを」と、言うて滝に飛び込んだんですよね。

そのときの彼の心境というのは遺言からすると澄み切った青空のような心境だったような気がしますね、武士の死に対する心境のような感じですね。

昔の武士というのは、死ぬことが本望だという考えを持ってましたよね。死ぬか生きるか恥をかくかとなってきたら、死ぬと。武士道とは死ぬことと見つけたり、と。

葉隠れ武士道ですかね、武士道の心がけを書いてあるんですね。

そういう心境だったかな、というような。だから苦しんだとか悩んだとかなくて哲学を専攻してましたから、そういう立場から人生とはいったい何なのか。

人間はいったいなんのために生まれて、目的はなんであるのかと、こう考えたら全く分からなかったんですね。

皆さん若い時分はこういうことを考えるものですね。
人間ていったい何が目的で生まれてきてるんだろうと、いうようなことをね。

ですが、すぐにそういうことも忘れてしまってますが、藤村操は絶対的にそれを追及して、分からん。
分からんような人生を生きてたってしょうがないというような、意味がないということで割り切って亡くなったような感じがします。

然しながら、今日の自殺願望者というのは、そんなものじゃないですわね。

悩み悩み悩んで、原因はいろいろあるですね。

病気のために一生治らんとかね。或は、大きな失望がくるとか。

もはや回復の見込み無し。
生きることもできないし、こんなことではもう、という不安から自殺ということに。

ま、原因もいろいろで千差万別ではないかと思うのですけれども、それは私は宗教的な立場から考えまして、もはや目的が失ってしまって目標がない、生きてる価値がないということで現実を逃避する。

逃げるというような、或は自分を消してしまいたいと。

自分は病気で苦痛で苦痛でいつ治るのか分からない。いつまで続くのか。

早くこれを処分したいということで、その解決法として、死を選ぶ、ということなのでしょう。

ま、様々なんでしょうけど、あの世ということを考えない、というか考える余地がないというのか、考えてないと思うのですがね、分かりません。その時にちらっと、死んだらどうなるんだろうということを考えないんだろうと思うのです。


ドイツの哲学者にショーペンハウアーという人がありますが、この哲学者は自殺願望者だったんです。ところが彼は、死後の世界を認めておったんです。

だから死んでもこの自分は消えない、この意識は続いていく。それだったら死んでもなんにもならん。そういうことで死を思いとどまったということが伝記の中に出てきますね。

藤村操は、そこまでいかなかった。あの世というのを認めてなかった。あの世を信じられなかったのでしょうね。

昔の哲学者は大抵、その神とか霊とかそういうものを認めていましたね。

ソクラテスは神と対話をしたといいますね。

あの人の心境というのは、もう真空管のような心境ですわね。

お客さんが来ますけど、皆疑問なんかを訴えてきたと思うのですが、まあいろいろと話をしてましたら、奥さんが出てきたんですね。

ところがソクラテスは客さんの話に夢中になってるものですから奥さんが何か言ったことが耳に入らなかったんですね。それで奥さんがぎゃーぎゃーとわめきだして、バケツに水を汲んできてソクラテスの頭からその水をかぶせるんですね。

そうしましたら、お客さんもびっくりするし、ちょっと評判には聞きましたが、ここまでするとは思いませんでしたと言うわけです。

すると、ソクラテスは、いやいや雷のあとには夕立があるのはあたりまえじゃないか、と。

この人は、汝自身を知れといったんですね。これは、ソクラテスは神や霊と話しができた。

ところが一般の人はできないですね。

それで霊というのはいったいなんであるのか、自分もその霊であるんだけれども、その霊というのはいったいなんであるのか、ということが分からない。だからそれを知れと。

自覚を持てというような意味と違うんですね。おまえは自分というのは分からんだろうと。

まずその自分を探求せよと、いう霊魂として追求をしてみよということであろうと、私はそう推察するわけです。

あの人のお弟子になったプラトンとか、アリストテレスとかいう方は皆認めてる。他にもデカルトも神を認め、二元論を考えたんですね。

物質と霊魂と二元論を考えたんです。

そして神の存在の証明というのをやってるわけですね。

ですが、この神の証明に対して多少疑問はありますが、ですがいろいろな哲学者の中でこのデカルトは親近感があるのです。

神というのは絶対的なんだというわけです。

絶対的なものは証明できないんだというて証明はしなかった。

しかしながら神は存在するというわけです。然し私は、神は絶対だとどうしていえるのだと、こう言いたいですね。何をもって神は絶対だというのか。

仏教では全ては向上して仏に成っていくのです。
犬も猫も猿も皆いったんは人間になって、向上していって声聞とか縁覚とか菩薩、そして如来に成っていくと。そうして皆が如来に成っていくというのが教えですね。

彼はキリストの方だから神は絶対なんですね。
それでも証明は出来ないんだと、それで嘆いたんですけれども。