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和尚さんの法話 「安楽死と後生」

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安楽死ということを、仏教から追求して考えますと、どうしても来世ということを念頭に置かなければならない。

死後の世界があるんだということです。

それを踏まえて物事を考えていきますと、そうでなきゃならんのだということです。

例えば、死刑という問題があるわけですが、これは死後の世界があるんだということを考えると賛成です。

そしてもうひとつは、因果の道理ですね、悪因悪果、善因善果。

この因果の道理を踏まえて死刑ということを考えると、死刑はしてあげたほうが向こうへ行って、本人にとって楽なんだということです。

死後の世界があると無いと、因果の道理があると無いとで見方がころっと変わってくると思うのですね、価値観がころっと変わる。

このある無しということでも、死後の世界を考えて、そして追求していくということになりますと、多少は変わった見解も出てくると思うのです。

安楽死はどういうときに可能であるか、認められるのであるかということで、いくつか条件を出してみました。

耐え難い苦痛があって、それをどうするという方法もない。
しかも死期が迫っている。

本人さんに安楽死の意思がある。

そういう条件を備えて安楽死を認めているというようなことではないかと思うのです。

安楽死か、殺人かというというようになってるんですね。

殺人というのはちょっと酷いなと思うのですが、然しながら宗教として考えますと、肉体を使った行動だけではなくて、言葉もそうだし心に思うこともそうですわね。

身口意の三業といいますね、善悪共に。

ですからお医者さんが安楽死を、こう薬を与えると。

もう死期が迫っておっても見込みの無い。

で、苦痛であって可愛そうだ。

これはもう仏様の目から見て100%と言いたいんですよね。
仏様の目から見て100%この者は死の方向に向っていると。

つまり可愛そうだ、苦痛で可愛そうだという以外のなにものでもないと。

若し、そのお医者さんの心理の中に何パーセントかの、此の機会をとらえて薬の効き目を試すとか、薬でどれだけの死ぬまでの時間がかかるかとか、そういうふうな研究ですわね、そういう気持ちがちょっとでもあれば、それはその部分だけ不徳だと私は思うのす。

ですから、100%その患者さんの苦痛を和らげるためだというものでなければ安楽死がどうだといっても、これはもう調べようが無いわけですよね。

我々凡夫には分からない、仏様でなければ分からないんですが、100%死んで行く人のための安楽のために行うと、こういうのでなければ許されないと思うのです。

和尚さんの寺ではご祈祷をしてるわけですが、そのなかに家族の人が病気になって、お医者さんに見離されまして、もう日にちの問題だとおっしゃったそうです。

このときはだいぶ前のことですので、安楽死というような言葉は無かった。

お医者さんがおっしゃってるよりも日が延びてるんですけれども、お医者さんがそうおっしゃってるんだから死ぬには間違い無い。

本人も耐えられないし、家族も辛いわけですね。

と、いうことで、安らかに引き取っていけるようにご祈祷して下さいということなんです。

このように、死なせて下さいというご祈祷は出来ません。

それよりも、助かるものなら助けて下さいと、祈るほうが先ですね。

そして助からないものなら、安らかに引き取らせていただきたいと。

そういう気持ちになってご祈祷しますから、その方にも、そういう気持ちになって和尚さんの後ろで祈っていてくださいと。

そして、帰るときにお家で拝むように、お地蔵様のお姿を描いたものを渡すんですが、お家で拝むときも今申したように祈って下さいと。

助かるものなら助けて下さいと、祈るわけです。

本人も辛いし、家族も辛いからと、自分たちも辛いからと祈ると困るわけです。

仏様の教えの中には、病人さんの看病は非常に功徳になると説かれてあるんですよ、仏様にお使えするほどの功徳があるということをお説きになってるくらいなんだから。

だから、自分等の苦痛と考えたらあかん。

病人さんの苦痛だけを考えて、自分の苦痛を思わないようにして下さい、ということです。

そういうご祈祷が幾つかあって、その晩に安らかに息を引き取らせていただいたという話しと、その病人さんが助かった例があるんです。

お医者さんはもうだめだと、あと幾日ももたないだろうと、おっしゃったけど助かったんです。

それをお医者さんから言うと、それは偶然というかも知れませんけど、これはご祈願のおかげだと思うのです。

これは仏様の神力ですね、仏様にはこういうお力があるんだということの、悟り事のお経じゃないんだけれども、それを利用させて戴いたわけです。

お医者様にも、こういいては失礼なんですが、誤診ということがあるんですよね。

以前に、新聞だったか、雑誌だったのか忘れましたけども、東大の或る名医といわれるお医者さんがですね、講義をなさって、そしてある時に誤診が20%あったとおっしゃった。

さすがは東大のお医者さんやな、80%も当たったと。

20%の誤診があったと、偉いものだと書いてあったそうです。

が、和尚さんは20%も誤診があるのかと思ったそうです。

せめて90%か、95%当たるのかと思ってたら、なんのなんの、20%も誤診があるというのです。

ですから、お医者さんも凡夫ですからね。

仏様とか菩薩様方には、神通力というのがあるんですよね。

ですから、お医者さんであろうが、政治家であろうが、裁判官であろうが、この神通力を備えないと本当の判断は出来ないんですよね。

まあ、然しそんなことを言ってもし方がないんですけれどもね。

これは誤診といっていいのかどうか、或るお客さんが見えまして、手術をしようかしまいかと迷うて来られて、和尚さんは、これは手術をしない方がいいんじゃないかと判断したわけです。

然しながら、病気はやっぱりお医者さんが一番です。

お釈迦様でも専属のお医者さんを抱えていたくらいですからね。

そして医師とか、薬とか例えたお経が沢山出てきますね。

例えば、おまえたちは病人なんだと、私は医者なんだと、だから私が与える法をいう薬を飲みなさい。

そうすれば病気は治るんだから、という例えですね。
自分は医者だというたとえが沢山出てきます。


『夢のお告げ』

「我は良医の病を診て薬を説くが如し 服すと服せざるとは医のとがに非ず。」

昔のお医者さんのことですから、お医者さんが薬を作ったんですね。

お医者さんが病人さんを診断して、そうしてこの病気にはこの薬が効くと。

病によって、薬を説くと、おまえの病気はこうだから、この薬が必要なんだといって説くのですね。

然しながら、そんな薬はもう効かないんだと、せっかくの薬を飲まない人がいる。


「服すと服せざるとは医のとがに非ず。」

そこまでの責任は持てない。

ま、縁無き衆生ということですね。

こういうふうに、こういうお経があるんですね。

だから病気は、まずはお医者さんだということですね。

ですが、お医者さんばっかりではいけませんと、信仰もしなさいということです。