柵の向こうの彼女
柵の向こうの後輩と僕
「先輩、私ね、空を飛びたいんですよ。」
放課後の学校、夕焼け空に染められた白い校舎はいまだ続く部活の声に彩られ、のっぺりとそびえ立っている。校庭や体育館では、バスケ部やら野球部やらが、青春のほとばしるエネルギーを、これでもかというくらい無駄遣いして、奇声を張りながら、部活動にいそしんでいる。そんな所からは、遠く離れた所に屋上がある。その屋上にある緑色の人工芝が敷きつけられたところが、僕と彼女の居場所だった。僕は彼女と反対側のベンチに座りながら、心中をして死んだ文豪の、友達のために死んでいく男の本から目を上げて、彼女を見やった。
「だったら、飛行機で飛べばいい。ほら、今なら携帯電話ですぐに予約が取れるぞ。」
そんな風に、僕がいつも通り理知的かつ論理的な答えを返すと、彼女は頬を膨らませて、
「先輩は夢がないです。」
そう彼女がいつも通りのたまう。僕はこれまたいつも通り、君が夢見がちだからね、と返す。そこに、またまた当然のごとく、そんなことないです、と彼女が返す。
僕らの会話は万事が万事、そんな感じであった。彼女はいつも夢見がちで、僕はいつも現実主義者だったから、それもむべなるかなといったところだ。
僕は彼女のほうに目を移す。彼女は相変わらず、柵の向こう側から、屋上の風に吹かれてはためくスカートのすそを押さえて、夕日の赤と夜闇の青の交じり合うのを見ながらぼんやりと微笑していた。ともすれば、どこからか強い風が吹いて、都合三階分の高さから下の固い所に落ち、汚く広がったトマトペーストのようになってしまう、そこが彼女の特等席だった。そして、僕は相変わらず柵のこちら側から彼女の風に吹かれてくる声と、柔らかい匂いを感じながら、彼女の存在を感じていた。
「あのですね、飛行機とかじゃないんです。何か他力本願じゃないですか、あれって。」
「そんなことを言っても、人間は己でしていることなど何もないじゃないか。万事が他力
本願。そもそも我々人類は地球に生かされているのだから。」
「あなたはどこかの環境保護団体の人ですか。」
「いや、基本破滅主義者だよ。」
「どうでもいいです、というか論旨のすり替えをしないでください。」
「罠だ。」
「張らないでくださいよ、もう。」
彼女は少しばかり眉根を寄せて、しかし、口には相変わらず微笑をたたえながら言う。
「ええと、何話してましたっけ。」
「ふふ、まんまと引っかかったね。」
「うるさいですよ、そこの人。あ、そうだ。空が飛びたいんですよ、私は。自力で。」
「自力で?」
はい、と彼女は元気に答えた。私は少しばかりの思案をして彼女に言った。
「うむ、じゃあ、そこから飛べばいい。」
はい? と彼女はとても愛らしく困惑してくれた。
「いや、それ死んじゃいますよ。」
「うむ、そして君は若い身空で死んだ罪により、六道輪廻で畜生道におち、そこで鳥にねればいい。さすれば自力で飛べるようになるだろう。」
「えらい遠いですね。」
「うむ、夢とロマンに満ち満ちているだろう? 」
夢がありすぎてなさ過ぎですよ、と彼女は言う。ジレンマだな、と僕は言う。
「いや、その来世とかはなしにですね。今、ここから、飛びたいんです。遠いところまで。」
彼女はそう言うと不意とこちらから目線をそらし、山際に沈む夕日より遠くの世界に目を向ける。僕はそんな彼女から目をはずし足元に目を向ける。自分の西日にがさして、いやに伸びた影を見る。細々としたそいつは、夏の冷めない熱気に浮かされて、青黒く揺らめいていた。
「それは、どこにあるんだい? 」
僕は、何とはなしに彼女に聞いた。すると、彼女はなんだか答えにくそうにをこちらに向けた。
「いや、わかんないです。」
「わかんないのか。」
彼女はどこぞの金貸しの手先である小動物よろしく、なんだかとても困った様子である。そんな表情をされたら、こちらも困ってしまう。
「わからないんです。でも、あるんです。私の知らない場所に、見たこともないけれど、聞いたこともないけれど、私が私である場所が。」
「観測不能だね。そこは。」
なら、ないと一緒じゃないか、そう思っていると
「でも、感じられますから。私には。」
彼女は、また少し笑って僕にそういった。
下校のチャイムが鳴っていた。そうして、僕は彼女と別れて家に帰った。