京都七景【第九章】
【第八章 山門に散る(二)】
それからの俺は〈クライスト『こわれがめ』演習〉で彼女に再会する日をひたすら待ち望んで毎日をうきうき、うかうかと過ごしていた。
だが、彼女は新学期になっても姿を現さなかった。そのうちに、春が過ぎ、夏が行き、秋が来た。それでも彼女は現れない。
いよいよ秋も深まった、ある曇り日の午後のことだった。〈ラテン語文法〉の演習で、身も心もくたくたになり、いつもは気にして通る掲示板前も素通りし、学食の喫茶室でアンミツでも食って休息をとろうかと外に出た途端、黒い人影にぶつかりそうになった。
「あっ、すいません。ごめんなさい」と危ういところで身をかわし、学食の方へ一歩踏み出したそのときである。
「あっ、大山さん?」と忘れもしない、あの細く透き通った優しい声がした。俺はすぐ振り返った。やはりカフカ女史だった。俺はうれしさに胸が詰まりそうになったよ。だって一年近くも会わなかったんだから。
「いったい、どうしてたんですか。クライストの演習にも出て来ないから、みんなで心配していたんですよ」
「本当にごめんなさい。べつに何があったというわけではないんだけれど。ただ大学に出るのが少し億劫になって、それでついつい休んでしまいました。でも、もう大丈夫、ふつふつとまた気力が湧いてきましたから」
ところが、話している内容とは裏腹に、声は小さく消え入りそうである。俺には彼女がこの間とはずいぶん人が違ってしまったように見えた。もちろん性格が変わってしまったというわけではない。ただ、無邪気で天真爛漫な明るさが消え、物憂げでどこか投げやりな陰りが身に添っているように思えた。そういえば、着ている服も白い薄地のタートルネックのセーターに黒いジャケット、やや暗いブルーグレーのスラックスという格好である。なるほどシックといえばシックだが、はつらつとした色彩が消え去っているのもまた事実である。これは何かあったな、と俺はにらんだ。今もこの時の俺の判断にそれほどの間違いはなかったと思っている。だが理由はどうあれ、問題はここに困っている人がいて、それが俺の好きな人だということだ。何とか力になって支えてあげなくてはならん。そう俺は痛切に心の中で思った。
「でも、そのわりに元気そうには見えないけど、大丈夫?俺もそうだったけど、億劫な気もちってそんなにすぐに変わるものじゃないから、焦らないで無理せず時間をかけて少しずつ変えていけるといいんじゃないかな。何か力になれることがあったら遠慮せずに言ってください。言えば、解決は無理かもしれないけれど、気持ちが楽になるし、一瞬でも忘れるきっかけにはなると思うから。それから気分転換ならいつでもつき合いますよ」
「おお、おお、言いも言ったり、大山、一世一代の名台詞だな」とわたし。
「おい、茶化すなよ。俺はこの時ほど純粋な気持ちになれたことはなかったんだから。今でもこの時の俺が自分ながらひどく愛おしいぜ」
「こりゃあすまなかった、先を続けてくれ」わたしは詫びた。
「ありがとう」と一言、彼女は言った。その時の彼女の眼は確かにうるんでいたと思う。
俺は彼女にアンミツを食べにいくところだからもしよかったらいっしょに行かないかと誘ってみた。彼女は意外な返事をした。
「アンミツもうれしいんですけれど…、それより、大山さん、この前、新人歓迎会で私と約束したこと覚えてます?」
「えっ」と俺は驚いた。もちろん約束の内容は分かっていた。だが、水曜日の午後二時のこのタイミングが俺をうろたえさせた。所持金に問題がある。
「も、もちろんです。湯豆腐のことですよね」
彼女はそんなこととはつゆ知らず(当然だがな)話を進めた。
「ええ、その通り。実は今日、リハビリのつもりで、とりあえず大学に出てきたんです。そしたら、大山さんに会って何だかほっとして、急に湯豆腐が食べてみたくなっちゃった。突然で心苦しいんですけれど、付き合っていただけますか」
俺はあわてた。またとないチャンスである。しかも彼女は心の支えを求めている、らしい。ここは何としてでも俺がもてなす場面ではないか。だが、いかんせん金がない。どうしたらいいだろうか。
「あの、お金のことなら、ご心配なく。わたしが我ままをお願いしているんですから」と俺の内心を察したかのごとく彼女は微笑んだ。
これはいかん、このままでは男がすたる、と俺は思った。なんとか打開策を講じなければ。すると、ぴんと閃いたことがある。俺は今朝、無一文だった、だが、つい今しがた彼女をアンミツに誘おうとしていた。金はどうするつもりだったのだろう。そう思ってよくよく考えてみると、なあんだ、今日は親からの振り込みがあって午前中に一万円を下ろしたばかりじゃないか、と気がついた。おれはほっと胸をなでおろした。これで俺も男になれる。
「あの、お金の件は後回しにしましょう。それより、さっそく出かけませんか。今日はだいぶ冷え込んで来てるから、湯豆腐には持って来いですけど、外に長く立っていてカゼでもひいたら大変だ」
というわけで市バスと京阪電車を乗り継いで蹴上駅まで行き、そこから南禅寺方面へ歩いて、参道近くの『順正』という湯豆腐屋に入った。ところが、料理が来てもカフカ女史は、ちょっと箸をつけただけでそれ以上は食べられない様子だ。おれだけ元気よく食べるのも何だか申し訳なくて、
「気分でも悪いですか」と尋ねてみた。
「いえ、いつもより気分はいいんですけど、食べようとすると急に胸が苦しくなって食べられなくなってしまうの。ごめんなさいね。せっかく無理を言って連れて来ていただいたのに料理ひとつ食べられないなんて、本当に情けなくなっちゃう。今日は大山さんに会えて、とってもうれしかったんです。それで、そのお礼をしようと思ったのに、ご迷惑ばかりかけちゃって、わたしって本当に馬鹿みたい」
「俺のことは気にしなくていいんですよ。それより、いつもこんな風にたべられなくなるんですか?」
「いつもというわけじゃありませんけど」
「いったい、いつからこうなったんですか?ああっと、余計なこと聞いちゃったな。今の質問はなかったことにしてください」
「いえ、いいんです。かれこれ、半年近くになります…」
「医者には、かかっているんですよね?」
「ええ」
「医者は何と言ってるんですか?ああ、また余計なことを聞いちゃったな。ごめんなさい」「いいんです。食事は5回か6回に分けて、少しずつ取るようにと言われました。そのおかげで近頃は大分調子も良くなって来ていて、あと一息だそうです」
「じゃ、そうなる原因もわかっているんですよね?」
「ええ、まあ、だいたいは…」