河 (一章)
一章
気付けば私は東京の高等学校に通っていた。九州の田舎から上京するまで、東京にある学校というのは、校庭が狭く、屋上が遊技場であり学生のたまり場で、昼休みや休憩時間にませた会話や、また、たまにシニカルな軽い道化をし、友人の琴線に触れないよう笑わせたり、授業も終日になって、放課後、唯一気の合う友人達と、日も落ち始める頃まで屋上で恋話を持ちかけ会話をし、それを終えた後、生徒達が居なくなり、昼間の喧噪に疲れ果てた教室の、無造作に置かれた机に座って、机上に彫られた落書きを眺め、ふと目を寄越せば、教室のドアに向かって夕日が机の角を照らし、夕焼けに染まった空が河を照らし、それが道しるべとなって、東京湾から来る凪を受けながら自転車で河川敷を通り、夕日は黄昏とともに、一日の思い出を持たせ、帰宅する。というものだった。
そんな「東京の高校」というものを、当時流行していたドラマが、「河」を背景に主人公の葛藤や黄昏を置く、ややもすれば「河」が主人公にそうさせている、というもが、ある地方の田舎の、流行りも、ませたことにも関心がない少年に未知の衝撃を与えた。私である。私はその様なノンフィクションの物語の中に身を投じたかった。しかし物語の舞台は東京である。そしてその舞台の空間を包み込む「河」という存在が、物語や人の人生の中の一コマを要約する必然たる基盤にも思えた。
私の生まれ故郷は、春の夕日は山に遮られ、川はあったが、大きく夕日が水面に映る「河」ではなかった。無論、広い河川敷のような、人々が水辺に行き交い、その姿を見下ろす河に沿った土手の丘など無かったのだが、仕方が無いように代替として、田舎の川をミニチュアの「河」として私の中で投影し、満足せざるを得なかったのである。しかし、東京の学生は「河」と学生生活を送っているのかと思うと、同じ学生でも場所が違へば、そこには環境という差が生まれ、私は田舎の川を見るたびに自分の置かれている環境を憎んだ。私が「田舎の高校生」だった頃は、「そこ」は耽美たる異世界だったのだ。
だがある日、私は半ば家出同然で、東京の叔父の家へと向かい、私の思いの旨を伝えると「ここから通えばよい」と、一言返事で、私はあこがれていた東京の高校生活に、ふと身を置いたのである。それは悲惨なものだった。念願叶い、それに肩透かしを食らった、というより、私は、東京の学生の、一人の人間、友人としての、ある種のアイデンティティーの距離間が、田舎の学生とはまったく違うという事を突きつけられ、次第に学校生活に早々憂いてきたのである。そのためか、私はためらいもなく故郷を捨てた。故郷の人との距離感も、故郷の友人も、故郷の方言も。私は日本の中心の、東の京の標準に自己を順応させた。難しいということは無い。私は故郷を「河」が無い、という事を理として否定してきたのだから。
学校では馴れ合いの友人は数人居たが「本当の友人」と思っていたお互い帰宅部の友人である城山が咄嗟に言い放った。「友達とか、つるんでる奴らはほとんど「カタチ」、校門出たらバラバラと役を演じ終えたように自分の世界に戻んだからさ。」と帰りの電車で学校生活の愚痴を漏らし始めた頃だった。まさに、故郷の友人のとの距離感の違いを形容していた。不意に私は多摩川駅で改札を出たくなったのである。「河」だ。しかしいつも通り二人一緒に乗り換える多摩川駅。共に電車を乗り継いだ「振り」を演じるためにホームに向かわなければ無かった。用も無い、何もない多摩川駅で改札を出るのは不自然だと私自身、そう思ったからである。城山とホームで別れ、彼が乗る電車が見えなくなったと確認すると、エスカレーターに乗り、再度改札へと下る。「カタチ…」という、その形容の虚しさと共にエスカレーターを下りながら、ふと乗換えを「演じ」改札へ向かう私自身が、城山の言い放った一言により、受け入れ難いが、半ば事実である事を、私の今の行動によって、事をより裏付けしていた。
しかし、私が田舎で投影してきた「河」というものは、私を裏切らなかった。多摩川駅の改札を出ると、特に昼間迄の授業である土曜日は、学校よりも都内よりも一層開放感が漂っていて、私をこの上なく最高の気分にさせてくれるのだ。駅のすぐそばに丘があり、丘の上は公園になっていて、ビオトープもある。学校生活に空虚感を抱く日々に、黄昏れる場所を求めていた私にとって、絶好の黄昏スポットだった。丘の奥には野鳥家が喜びそうな生い茂った、あまり手が加えられず、元あった雑林に少し手を加えただけの森がある。春の訪れの陽気に少し冷たい風が、木々を揺らし、その葉間から、階段の角の岩に寝そべって仰いで見える太陽が余計に私の解放心を駆り立てた。
丘からは多摩川も一望出来て、私の中の呆れ果てた憂鬱が、これでも眺めなさいと言わんばかりに、方心状態で眼下の河の橋を行き交う電車を見つめ、気がつけば河の水面がオレンジ色の光を照らし始めていた。
「どうすればいいんだろう?」
春の寒空の下、どうしようもない悩みを、また抱え、闇夜の階段の上に広がった、青白く映る散った桜を踏みながら下り、現実世界へと、駅へ向かった。
東京での初めての夏休み。私は叔父の目黒の家に近い目黒通りを西へ自転車を走らせた。東京という所は平野で坂も無く、勾配もないところだと思っていたが、幾度と無く度重なる勾配が、目黒通りの終わりであり、その行くつき先の多摩川を、じらす様に遮る。
アスファルトが暑い。サイクリングを楽しみながら多摩川へ行く。私にとって、目的地は遠い、が粋な企画だと思い、自転車を走らせたが、景色を楽しむ、そのような余裕は出立してからすぐに失せ、じりじりと上からも下からも熱が私を包んだ。汗っかきでない私は体験したことの無い程汗が吹き、下りの勾配で汗が風を受ける時以外は、それはべとべとした煩わしい存在だった。しかしその汗は、次第に何か、その若く、きめ細かい私の腕の肌の皺を照らすように覆う様は、「生」と「夏」という充足感を与えた。ただ今、私は河にたどり着くために勾配を受けながら必死にペダルをこいでる。河が私にそうさせるのだ。
等々力の標識が見えてきた。道路の先には真夏のまばゆい空しか見えない。胸が高まり、どうしたものか緊張してきた。河が近いのだ。その道路の先に立てば多摩川の河川敷に下る長い坂が現れた。坂の上から河は土手の丘で遮られ見えない。しかし、汗にまみれ、パンパンに張った足にとって、等々力という場所は最後になんと言う粋な計らいをしてくれるのだろう。旅路の最後は自転車で真夏の風を受けながら河へと坂を下るのである。私は自転車を坂に任せ、河へ吸い込まれるように下った。はじめ頭の中でアリアの優しい旋律が、スーッと下りながら流れてきた。速度が増してゆくにつれアルッペジオが時折混じり始め、速度が頂点に達した頃にはリストのような超絶技巧の旋律が、胸を高ぶらせた。ふと気づけば坂の末端に近づき、速度を一気に借りて土手の丘を登り、そこからすっぽりと目の前に多摩川が現れ、勢いにブレーキを握った。その瞬間、旋律は止まり、それと同時に、眼前に青い空がどっしりとそびえ立つ入道雲に、河が広がる空間が、ゆるやかに私を包み込む様にして、時が止まった。
気付けば私は東京の高等学校に通っていた。九州の田舎から上京するまで、東京にある学校というのは、校庭が狭く、屋上が遊技場であり学生のたまり場で、昼休みや休憩時間にませた会話や、また、たまにシニカルな軽い道化をし、友人の琴線に触れないよう笑わせたり、授業も終日になって、放課後、唯一気の合う友人達と、日も落ち始める頃まで屋上で恋話を持ちかけ会話をし、それを終えた後、生徒達が居なくなり、昼間の喧噪に疲れ果てた教室の、無造作に置かれた机に座って、机上に彫られた落書きを眺め、ふと目を寄越せば、教室のドアに向かって夕日が机の角を照らし、夕焼けに染まった空が河を照らし、それが道しるべとなって、東京湾から来る凪を受けながら自転車で河川敷を通り、夕日は黄昏とともに、一日の思い出を持たせ、帰宅する。というものだった。
そんな「東京の高校」というものを、当時流行していたドラマが、「河」を背景に主人公の葛藤や黄昏を置く、ややもすれば「河」が主人公にそうさせている、というもが、ある地方の田舎の、流行りも、ませたことにも関心がない少年に未知の衝撃を与えた。私である。私はその様なノンフィクションの物語の中に身を投じたかった。しかし物語の舞台は東京である。そしてその舞台の空間を包み込む「河」という存在が、物語や人の人生の中の一コマを要約する必然たる基盤にも思えた。
私の生まれ故郷は、春の夕日は山に遮られ、川はあったが、大きく夕日が水面に映る「河」ではなかった。無論、広い河川敷のような、人々が水辺に行き交い、その姿を見下ろす河に沿った土手の丘など無かったのだが、仕方が無いように代替として、田舎の川をミニチュアの「河」として私の中で投影し、満足せざるを得なかったのである。しかし、東京の学生は「河」と学生生活を送っているのかと思うと、同じ学生でも場所が違へば、そこには環境という差が生まれ、私は田舎の川を見るたびに自分の置かれている環境を憎んだ。私が「田舎の高校生」だった頃は、「そこ」は耽美たる異世界だったのだ。
だがある日、私は半ば家出同然で、東京の叔父の家へと向かい、私の思いの旨を伝えると「ここから通えばよい」と、一言返事で、私はあこがれていた東京の高校生活に、ふと身を置いたのである。それは悲惨なものだった。念願叶い、それに肩透かしを食らった、というより、私は、東京の学生の、一人の人間、友人としての、ある種のアイデンティティーの距離間が、田舎の学生とはまったく違うという事を突きつけられ、次第に学校生活に早々憂いてきたのである。そのためか、私はためらいもなく故郷を捨てた。故郷の人との距離感も、故郷の友人も、故郷の方言も。私は日本の中心の、東の京の標準に自己を順応させた。難しいということは無い。私は故郷を「河」が無い、という事を理として否定してきたのだから。
学校では馴れ合いの友人は数人居たが「本当の友人」と思っていたお互い帰宅部の友人である城山が咄嗟に言い放った。「友達とか、つるんでる奴らはほとんど「カタチ」、校門出たらバラバラと役を演じ終えたように自分の世界に戻んだからさ。」と帰りの電車で学校生活の愚痴を漏らし始めた頃だった。まさに、故郷の友人のとの距離感の違いを形容していた。不意に私は多摩川駅で改札を出たくなったのである。「河」だ。しかしいつも通り二人一緒に乗り換える多摩川駅。共に電車を乗り継いだ「振り」を演じるためにホームに向かわなければ無かった。用も無い、何もない多摩川駅で改札を出るのは不自然だと私自身、そう思ったからである。城山とホームで別れ、彼が乗る電車が見えなくなったと確認すると、エスカレーターに乗り、再度改札へと下る。「カタチ…」という、その形容の虚しさと共にエスカレーターを下りながら、ふと乗換えを「演じ」改札へ向かう私自身が、城山の言い放った一言により、受け入れ難いが、半ば事実である事を、私の今の行動によって、事をより裏付けしていた。
しかし、私が田舎で投影してきた「河」というものは、私を裏切らなかった。多摩川駅の改札を出ると、特に昼間迄の授業である土曜日は、学校よりも都内よりも一層開放感が漂っていて、私をこの上なく最高の気分にさせてくれるのだ。駅のすぐそばに丘があり、丘の上は公園になっていて、ビオトープもある。学校生活に空虚感を抱く日々に、黄昏れる場所を求めていた私にとって、絶好の黄昏スポットだった。丘の奥には野鳥家が喜びそうな生い茂った、あまり手が加えられず、元あった雑林に少し手を加えただけの森がある。春の訪れの陽気に少し冷たい風が、木々を揺らし、その葉間から、階段の角の岩に寝そべって仰いで見える太陽が余計に私の解放心を駆り立てた。
丘からは多摩川も一望出来て、私の中の呆れ果てた憂鬱が、これでも眺めなさいと言わんばかりに、方心状態で眼下の河の橋を行き交う電車を見つめ、気がつけば河の水面がオレンジ色の光を照らし始めていた。
「どうすればいいんだろう?」
春の寒空の下、どうしようもない悩みを、また抱え、闇夜の階段の上に広がった、青白く映る散った桜を踏みながら下り、現実世界へと、駅へ向かった。
東京での初めての夏休み。私は叔父の目黒の家に近い目黒通りを西へ自転車を走らせた。東京という所は平野で坂も無く、勾配もないところだと思っていたが、幾度と無く度重なる勾配が、目黒通りの終わりであり、その行くつき先の多摩川を、じらす様に遮る。
アスファルトが暑い。サイクリングを楽しみながら多摩川へ行く。私にとって、目的地は遠い、が粋な企画だと思い、自転車を走らせたが、景色を楽しむ、そのような余裕は出立してからすぐに失せ、じりじりと上からも下からも熱が私を包んだ。汗っかきでない私は体験したことの無い程汗が吹き、下りの勾配で汗が風を受ける時以外は、それはべとべとした煩わしい存在だった。しかしその汗は、次第に何か、その若く、きめ細かい私の腕の肌の皺を照らすように覆う様は、「生」と「夏」という充足感を与えた。ただ今、私は河にたどり着くために勾配を受けながら必死にペダルをこいでる。河が私にそうさせるのだ。
等々力の標識が見えてきた。道路の先には真夏のまばゆい空しか見えない。胸が高まり、どうしたものか緊張してきた。河が近いのだ。その道路の先に立てば多摩川の河川敷に下る長い坂が現れた。坂の上から河は土手の丘で遮られ見えない。しかし、汗にまみれ、パンパンに張った足にとって、等々力という場所は最後になんと言う粋な計らいをしてくれるのだろう。旅路の最後は自転車で真夏の風を受けながら河へと坂を下るのである。私は自転車を坂に任せ、河へ吸い込まれるように下った。はじめ頭の中でアリアの優しい旋律が、スーッと下りながら流れてきた。速度が増してゆくにつれアルッペジオが時折混じり始め、速度が頂点に達した頃にはリストのような超絶技巧の旋律が、胸を高ぶらせた。ふと気づけば坂の末端に近づき、速度を一気に借りて土手の丘を登り、そこからすっぽりと目の前に多摩川が現れ、勢いにブレーキを握った。その瞬間、旋律は止まり、それと同時に、眼前に青い空がどっしりとそびえ立つ入道雲に、河が広がる空間が、ゆるやかに私を包み込む様にして、時が止まった。