203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』
「ほうほう」それはグッド。あまりにも不潔なところだったら嫌だなと考えていたところだ。というか俺が不潔か。毎日風呂に入っているし、服も洗濯しているけど、この格好じゃあなぁ……。
「そうそうそれと、ハイツといえば」俺が混沌ネクタイをどうにかできないもんかと弄っていると、何かを思い出したように女性店員は声量を上げた。「ミドリさんですよ!」
「は? ミドリさん?」
「ミドリさんはハイツの管理人です。素敵な方なんですよぉ」とお釣りの小銭をぎゅっと握り締めると彼女はうっとりとして表情で、ハイツが建っているであろう方向に視線を向けた。透視でもしているみたいで、ちょっと怖い。
「ミドリさんは、とても静かで、お淑やかで、誰にでも優しいんです。ちょっとタバコ臭いのが難点ですが、私の憧れの人なんです」
「はぁ……そうなんだ……」
呆れが混じった返事をしたが、実は内心では握り拳を握っていた。
ミドリさんって女性名だよなぁ、と考え、そんな素敵な女性が管理人だなんてなんて幸運なんだろうか、とギャンブルに勝ったような気分になった。全く調べずに賃貸を決める、というギャンブルに。
俺はぽわわんと夢見心地のような店員から小銭を何とか受け取る。
「また来るわ〜」と、レジに立つ店員に声をかけたが、ミドリさんとやらに思いを馳せているようで、「ふぇ〜ぃ」と返事が帰ってきた。そんな彼女の様子をみて期待はさらに募る。
女性が羨む女性とは一体どんな人なのだろうか。
期待を胸に、店を後にした。
◇
歩いて、『数分』から『数十分』に変わるころ、『アインシュタイン・ハイツ』に辿り着いた。
途中、モッポ氏が女子高生にからまれていたような気がするが、期待に胸が高まっていたせいだろうか、俺はそのことを特に気にすることもなく、ここまでやって来た。
目の前に立つ建物は、三階建て。
まあ、確かにボロイっちゃあボロイのかもしれない、という感想を抱ける外観をしている。しかし、味があっていいじゃないかとも思える。
見上げると、最上階の一番手前の窓に物静かに青年が本を読み耽っていた。その光景は、絵になりそうだった。他の階の窓にも、ときどき人影のようなものが見え、確かに人の営みが存在することを感じた。
「ふんふん、いいじゃないか」
周りに住宅が並び立つ中、この建物だけ時間の流れが違うような、冷えた雰囲気が漂っている。しかし、それは不快なものではなく、心落ち着かせるものだった。
「いい雰囲気だ」もう一度、今度はさらに強く気持ちを込めて、呟いた。
「にゃあ」
「おっ?」
猫の鳴き声がして足元を見下ろすと、駅前で出会った灰色の綺麗な毛並みの猫がちょこんと座って、俺を見上げていた。
「あれ、また会ったな」
「…………」
声をかけると猫は無言で瞬きを一つし、しなやかな動作で歩き出した。愛想のないやつめ、モフモフの刑に処してやろうか。
そんなことを考えて後をつけると、猫は数歩進んだところで止まった。『アインシュタイン・ハイツ』の扉の前だった。
そして猫は、扉の前で俺の方へ振り返るとじっと見上げてきた。まるで自分がこの建物の主だとでも言いたげな、尊大な態度だった。
「なんだ、お前もここの住人なのか」
「…………」無言だったが、尻尾を左右に一回振った。
「そうか。よろしくな。俺は尾路山誠二ていうんだ。ゲロみたいな名字だろう?」
猫はそのオヤジ臭いジョークに何も反応しなかったが、手を差し伸べると、握手の代わりだろうか、ぺろりと中指を舐めてきた。ざらざらとした感触がしてくすぐったく、思わず笑ってしまった。
「そんじゃ、ま」と、一息ついて前方の扉に視線を向ける。
「お邪魔します」
誰とも言わず、一人ごちてハイツの扉を押した。
この扉を開けば、どんな生活が待っているのだろうか。考えていなかったが、隣室の人とはうまくやっていけるだろうか。そういえば、風呂ってあったっけか? いろんな不安と疑問がとりとめもなく頭を過ぎるが、まあ、なんとかなるだろうとそれらを一掃した。世の中は上手くいかないことばかりだけど、なんとかやりくりできるようになっているものだ。
俺は、猫と一緒に建物に入り、
「すんませーん! 今日引っ越してきた尾路山ですー!」
漂う冷涼な空間に、俺の存在を投下した。
作品名:203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』 作家名:餅月たいな