203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』
プロローグ2
「うーん、むむ」
俺は鏡に映る自分の格好のだらしなさに唸っていた。気づけばスーツの前ボタンは全部外れ、中に着ている皺々のワイシャツはズボンからはみ出していて、腰に巻くベルトは捻れてるし、ネクタイなんかは混沌としていて言葉では言い表せない。
駅から『アインシュタイン・ハイツ』略して『アイツ』(勝手に命名)に向かう途中、喫茶店を見つけて立ち寄った。引越し屋がハイツに到着するまでに後三十分ほど余裕があった。ハイツはこの近くにあるようだし、ほんの少しの休憩としてお茶していこうと思い立った。
『VOICES』というその店は、店名とは裏腹に静かな店だった。中々に綺麗で、落ち着く雰囲気。俺好みの店だった。
「この店に住みてぇ」
などと、ガキンチョが自分よりも裕福な友人宅にお邪魔したときの感想みたいなことぼやきながら、案内された席に着いた。案内してくれた女性店員さんの柑橘類の香りに年甲斐もなく、うっとりする。
その後、注文を聞かれて、ショートケーキとダージリンを頼んだ。コーヒーも捨てがたかったが、ケーキにはやはり紅茶だろう。
注文が届くまで何をしていようかと考えたとき、都合がいいのか悪いのか、尿意がひょっこりと顔だした。と、可愛らしく表現しても、結局は排せゲフンゲフン……馬鹿なこと考えてないでさっさとトイレに行きましょうね、俺。
まぁ、そういうわけでトイレにやってきて用を足した後、洗面台に映った自分の格好のだらしなさにげんなりしていたわけだ。
ちゃんと朝はしっかり服装を正して出勤するのだが、夕方に近付くと俺のヒゲと服装は乱れに乱れまくる。一度乱れてしまうと、どんなに手直ししてもすぐに乱れてしまう妙な癖みたいのが俺にはあるのだった。
ネクタイは……どうしようもない有様なので、ベルトを直し、ワイシャツをズボンの中に入れ、スーツのボタンを締めた。そして、くるりと回って出口へ向かって数歩歩いてみた。そこで止まって、もう一度鏡へ振り返る。
すると、あら不思議、元に戻ってしまった。ボタンは一瞬で外れ、ワイシャツは物理法則を無視したかのようにズボンから飛び出て、ベルトは三回転半の高得点物。ある種の超能力かなんかじゃないかと最近思い始めてきた。
意味ねー能力だなぁ……。芽生えるなら、時を止める人型の超能力がよかった。世の中上手くいかないよなチクショー。
それにしても、このだらしない格好、爆発天パ、前衛的な結び方のネクタイ(ポジティブ!)、なんだかDJみたいでカッコイイ気がしてきた(ポジティブ!)。
そういえば、と職場内で一時期ダンスミュージックが流行った事を思い出した。「HEY!」とか「YO!」とか人差し指と小指をおっ立てて、「これから得意先と会議だYO!」とか言って出て行った同僚を見てこの会社もうダメだなとあきれたことがある。俺は全く興味を示さず、「お前ノリが悪いYO。一番DJっぽいのに勿体ないYO」と先輩に肩を叩かれていた。
今さらと思いながらも、そっと両手を上げて人差し指と小指を立ててみた。そして腕をクロスさせる。
「おっ、なかなか似合ってるじゃないか」
俺のルックスはそこまで酷いものじゃないと自負している。この砕けた服装に相まって、なかなか様になっているような気がした。
DJといえばディスクをすのだろうか。スクラッチ、だっけ? キュッキュと鳴らして、ヘッドバンキングするやつ。
――俺は何となしに想像してみた。
満員のライブ会場の中央で、砕けたスーツ姿のオッサンが、その姿からは想像も出来ない音楽を奏でている。観客はそのオッサンが作り出す音楽に圧倒され、身動き一つとれない。息を飲む。マグマのような熱い汗が額から垂れ落ち、喉ぼとけに沿って曲がりくねる。もしかしたらそれは目から零れ落ちた涙なのかもしれない。
やがて、最後の曲となった。大歓声の中、俺はひたすらにディスクを回す。キュッキュキュッキュと鳴らして、最後に思い切り――
「スクラァァーッチ!」「……あの」「おおぅ!?」
思い切り突き出した腕の先の鏡には、いつの間にか背後に立っていた長身の男を映し出していた。いつの間にいたんだろうか。忍者かこいつは? 気配が全くしなかった。
と、俺が固まっていると、「あの」と声をかけられた。「……どけていただけますか?」
「え? ああ、すみません! どうぞどうぞ」
「どうも」
低姿勢な態度でその場を譲ると、モノトーン調の服装のノッポの男はのそっとした動作で、俺が独占していた洗面台へ向かった。
バクバクしている心臓を押さえつつ、俺はトイレを後にすることにした。
いつから見られていたんだろうか。いや、いつから見られていようが恥ずかしいことには変わりないか。
そう考えると、思わず店内の通路で頭を抱えて蹲りそうになった。
◇
その後、身を縮めてもっそもっそとケーキを貪り食っていると(同じものを追加で五つ注文した)、会計レジの前にひょろっとした男が立っていることに気がついた。先ほどのトイレで見かけた男だ。
モノトーン調のノッポな男、略して『モッポ』氏は会計を済ますと気配を感じさせない動作で外へと向かった。外へ出る寸前、俺の視線に気がついたのか、俺の方へと顔を向けると軽く会釈をしてきた。俺はどきりとするも、反射的に頭を下げていた。クリームが顎についた。仕事病って保険降りるんだろうか。
扉が閉まった拍子に取り付けられた小さな鐘の音を聞きながら、残っていた紅茶をちびちびと飲んだ。
数分経ち、モッポ氏がここら一帯から離れるころを見計らって、俺は立ち上がった。先ほどの痴態を見られてしまったことを考えれば、出来ればモッポ氏と顔を合わせたくなかった。
「うぅ、何という恥ずかしさっ……!」
会計の前に立つと、俺が声を上げる前に店員さんがやってきた。店員の教育もしっかりしているようで、俺の中で『VOICES』の評価がさらに上がった。やってきたのは、俺を席に案内してくれた子だった。
「合計、こちらになりまーす」
と、経過に声を上げて俺に合計金額を見せてくる店員。
「げっ」
彼女の繊細な指がはじき出した金額に再び頭を抱えそうになったが堪える。俺は財布を取り出しながら、彼女に話しかけた。
「ちょっと聞きたいんだけど、『アイツ』ってこの先であってる?」
「えっ、あいつ、ですか? ええっと……私にはわかりかねますが」
「ああ、すまんすまん! 『アインシュタイン・ハイツ』のこと」
それを聞いて、「あーはい」と納得してくれたようだ。
「ハイツはこの先であってますよ。それにしても『アイツ』って、変な略し方ですね。センスないです」とくすくすと笑らわれる。俺はなんだか脇を掻きたくなった。
「よく言われるよ。それじゃあはい、お金」と言って、財布から取り出した札を取り出した。さらば、野口三兄弟。
ものはついでにと思い、さらに質問を続ける。
「アイ……ハイツってどんなところ?」
「そうですねぇ」と、彼女はレジを開いてお釣りを取り出しながら答える。「聞いた話では、綺麗な建物らしいですよ。古いわりには」
作品名:203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』 作家名:餅月たいな