203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』
仕方がないので、消しゴムを回収するついでに伊田君に生気を吹き込むことにする。彼の背後に回って、ピンセットで彼の口から消しゴムを取り出してから耳元で囁いた。
「伊田君、伊田君。調査業務、君が担当でいいよね」
しかし、返事はなかった。ただの屍になりつつあるようだった。
心身ともに傷ついている彼にしては非情かもしれないが、俺は続けて言う。
「調査業務、それってつまり探偵業務と言っていいだろう。よく聞け、探偵だ。探偵といえば、ホームズやポアロ、コナン君じゃないか」
「コナン君? コナン・ドイルのことですか?」北島さんが無粋なことを訊いてきた。
「コナン君はコナン君だろ。少年探偵団の」
そっちかよ、と目を細めて横目で白々しい目線を投げてくる北島さんは無視して、続ける。
「なあ伊田君、やつらはカッコイイだろう? 調査業務担当に就けば、君も彼らの仲間入りだ。そうなれば、モテモテじゃないか?」コナン君を思い出せ。彼の周りには恋人後方が何人いると思っているんだ。選り取りみどりだ。全く持ってけしからん! という俺の心情はさておき……。
その時、ぴくりと伊田君の体が震えた。俺は畳みかけるように、トドメ(?)の一言を放った。
「その内、にゃん子さんも君に振りむくんじゃないのかい?」
「ニ”ャーーーーーーーッッ!!」
突然、伊田君がどっかの芸人の決め台詞を叫びながら跳ね起きた。その勢いで机を跳ね上げて、お茶の入った湯のみが倒れて他のメンバーのデスクを緑茶が侵略し始める。
伊田君以外のメンバー全員で慌てていると、
「俺やりまっす!」
単位目当てで善行を積む学生のようなうっとおしさで、伊田君が宣言した。
「ちなみに、何を?」と俺が尋ねると、「もっちろん、探偵っすよ!」と元気に答えられた。答に微妙な間違いがあったが、あえて直さないでおく。
そして伊田君はにゃん子さんの席にサムズアップするのだが、にゃん子さんは布巾で緑茶を拭いている最中で見ていなかった。しかし、今回はさほどダメージを受けることなく、というか無視されたことに気づいていない様子の伊田君は上げた親指で鼻を擦ると丸腹に頭をさげた。
「うんまぁ、そこまで言うならやってみるといいよ。でも問題点を解消できたらな」
丸腹も彼の勢いに飲まれてあっさり承諾。どうやら上手くいったらしい。いやーよかった、営業以外で出張るのは絶対に嫌だったからこれで安心だ。夏とかにそんな依頼があったら、地獄だろうからな。
その後、伊田君の今回の業務での問題点を話し合うことになったのだが、伊田君本人にしかわからないことだし、伊田君自身もよくわかっていなかったので会議は行き詰ってしまった。
それじゃあ今度依頼があった時に様子をみようという意見も出たが、それじゃあ本末転倒だということで却下。本番で失敗しないように話し合っているわけだから。
困っていると、にゃん子さんが頭に電球の明かりがついたかのようにポンと手を打った。
「あ、じゃあ擬似調査なんてどうですか?」
「擬似調査?」
「はい、このメンバーの誰かを尾行してみるんです。とにかくもう一度やってみないとわからないですよ」
「なるほどね! さっすがにゃん子さん!」伊田君が顔を輝かせた。「それなら俺、にゃん子さんを尾行したいなぁ、なんつって!」
「尾路山さん、調査対象の役なんてどうですか?」
「調査対象の役か」
それならやってもいいかなと思えるが……、それよりもまた伊田君がフリーズしてる。可哀相に。しかし滑るようなことを言った彼も悪い。
「まぁ、それぐらいならやってもいいよ」
「おし、決まりだな」
その後、詳しい日程などを決めて一日が終わった。
翌日、俺は朝から伊田君に尾行されることになった。想像すると、中々に不快だが半永続的な厄介ごとから免れるなら、よしとしよう。
伊田君はにゃん子さんにいいところを見せようと必死になってアピールしているが、にゃん子は無視を決め込んでいて全く相手にされていない。
依頼主もそうが、恋は人を盲目にさせるとか狂わせるとか、本当らしい。
恋したことのない俺にはよくわらんことだ。
作品名:203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』 作家名:餅月たいな