ハーモニカ
その日は尚之と伴奏合わせの予定だった。今月末に校内演奏会の選抜試験があり、例によって信乃夫は尚之から伴奏を頼まれていた。初合わせをそれぞれの授業が終わってからすることになっている。
「都合が悪いかね?」
紙片には面接時間も記されていた。店が始まる前を利用するのか、夕方の、比較的早い時間である。会って、話をして、場合によってはピアノを弾いて見せなければならないだろうが、それでも一時間はかからないはずだ。場所も学校に近そうなので、往復、大してかからないだろう。尚之には事情を話して、時間をずらしてもらえば良い。練習室は遅くまで開放されているし、女子と違って下校時間をうるさく言われることもない。
「いえ、大丈夫です。その時間に伺いますと、先方にお伝えください」
信乃夫がそう答えると、田内は満足げに笑んだ。
そして、今日である。 授業の合間に尚之を捕まえて事情を話し、時間をずらしてくれるように頼むと、まだ試験まで間があるし、そのまま採用となって「早速今夜から」となるかも知れない。それで日を改めることになった。 尚之には洋灯亭の閉店は話したが、学費の件で苦労しそうなことは話さなかった。すぐに次の仕事が決まれば問題ないからである。
「そうか、すぐに次が決まりそうで良かったな?」
「うん。紹介してくれたのは素性のしっかりした人だから、それなりの店だと思うんだよ」
信乃夫は田内からもらった名刺を見せた。
「この銀行はうちの親戚と古くから取引のあるところの一つだ。へえ、この田内って人は貸付主査か。そりゃ、顔も利くだろう」
尚之は日本でも有数の財閥の一族である。親戚と言うからには、その財閥を指すに違いなく、そこと長年の取引があると聞けば、紹介される新しい仕事先の信用度は増す。カフェーの、それも夜の仕事は胡散臭いところもある。常連で顔を見知っていても、昨日今日口をきいたばかりの相手に少し警戒していた信乃夫だが、尚之のその言葉で面接を優先して良かったと思った。
「面接くらいなら、それほど時間はかからないかも知れんな? 場所は近いのか?」
「ここからそんなに離れていないみたいだ」
紙片の住所を見て「なるほど」と尚之は頷いた。
「今日は六時くらいまで練習室に居るつもりだから、終わったら来ればいい」
「そうだな、多分来れると思うよ」
てっきり面接は働く店で行われると思っていた。しかし指定された場所にそれらしい店は見あたらず、道を尋ねた通りすがりの人から教えられたのは、一旦は通り過ぎた『料亭』だった。
信乃夫は水商売の一端で働いているので、場所柄の諸事情には少しばかり通じていた。調べれば紙片に書かれた所番地はどう言う立地か気づいたことだろう。よくよく確認しなかったのは急な話だったことと、新しい仕事を早く決めたいと言う焦りがあったからだ。それでもただの料亭かも知れないと中に入ってみたのだが、果たして通された座敷には、仕事の面接をするには相応に過ぎる料理と酒が用意されていた。
座に着いて半時間ほど経つが、一向に仕事の話には至らない。最初のうちでこそ、音楽学校でピアノを専攻している学生であること、好きな音楽などの話はしたが申し訳程度で、あとは田内が相手の男を太鼓持ちよろしく持ち上げ、一人喋っている状態であった。
床の間を背にした上席に座る男は「浅野」と名乗った。貿易商として日本のみならず上海や満州にも事務所を構え、手広く商売をしているらしい。もっぱらそう言った情報は田内が話し、浅野は一言二言相槌程度に口を挟む以外は黙ったままである。
時折、信乃夫は彼の視線を頬に感じたが、素知らぬふりを通した。この段階にくれば、もう面接は口実であることは確かだった。下手に目が合ってしまったら、浅野の目の奥に潜むものを見て、嫌悪感を顔に出してしまうかも知れない。
「池辺さん、酒が進んでいないんじゃないかね? 飲めない口ではないだろう?」
杯を空けろと言わんばかりに、田内が徳利を持った。
「いえ、もう。この後、学校に戻ることになっているので」
信乃夫はさりげなく杯を遠ざける。言われるままに杯を空けたら、どうなることか。仕事の話にならないのであれば、長居する理由はない。「学校に戻る」と牽制して、頃合を見計らう。
「そうか、学校にね。それじゃあ、早く話の片をつけてしまわないと行けないねぇ。どうですかな、浅野さん?」
田内は浅野を見る。
「気に入った、田内さん。良い人を紹介してもらった」
浅野は目を細めて、あらためて信乃夫を見た。好きになれない表情だ。こんな表情をする人間に碌な奴はいない、すぐ様断った方が良い…と、またしても警告する声が頭の中で聞こえた。
「良かったね、池辺さん。どうやら雇ってもらえそうだよ。これであんたも力仕事なんて似つかわしくない仕事を探さなくて済む。さあ、話も纏まったことだし、最後に一杯。祝いの印だと思って」
田内はそう言うと、信乃夫の杯に残っている酒を別の器に移し、空にしたそれを差し戻した。二人の目が信乃夫を見つめている。
「申し訳ありません、このお話はなかったことに」
と信乃夫が言うや否や、向かいに座る田内の手が伸び、顎を掴んだ。開いた信乃夫の口に徳利の酒を容赦なく注ぐ。何がどうなったのか咄嗟のことで、田内の手も徳利の酒も躱せなかった。徳利が空になり、田内は顎から手を外すと同時に突き飛ばした。後ろに倒れそうになるのを堪えた信乃夫だが、酒に咽て咳き込むことは止められない。
「可哀想に、何て乱暴なことをするんだ。大丈夫かい?」
肩を抱いて背中を摩るのは浅野だ。
「きれいな子だ。いずれ戦争に取られるかと思うと、堪らない気持ちになる。でも安心しなさい。私は軍部にも顔がきく。悪いようにはしないから」
頬を撫でられて、その感触にゾッとする。信乃夫は身体を捩って彼の手から逃れた。
受けきれずに口から酒は零れたが、半分ほどは喉を下りて行った。純粋な酒とは違う後味があり、一服盛られたのではと疑う。
口元を拭いながら立ち上がると、浅野も立ち上がり、前に立ちはだかった。田内も加勢とばかりに浅野のすぐ後ろに立ち、信乃夫が隙を突こうと右に左に身体の重心を移動させるのと合わせて、彼も身体を揺すって浅野の隙を補うが、楽しんでいるようにも見える。
そうこうするうちに、信乃夫の足がもつれ始めた。頭もくらくらする。目の前の浅野や田内が二重に見えた。動きによって酔いが回ったのか、それにしては酒の酔い方と違う。やはり先ほどの酒には何かが入っていたのだ。
「どうしたね? 酔いが回ってきたんじゃないか? 少し休んで行きたまえよ。ここは長居が当然のところだから、時間の心配は無用だよ」
浅野の声音は優しげだった。
「ちゃんと休めるように床の支度は頼んであるからね」
信乃夫が動けなくなりかかっているとわかって、田内はすっと隣の座敷との境に動き、引き戸を開けて見せた。ぼやけ気味の信乃夫の目にも、鮮やかな朱色の寝具だとわかる。
腕を取られて導かれるのを、自由がままならない足では抵抗出来ようはずもない。瞼が重くなって、視界はどんどん狭くなる。自分が歩いているのか止まっているのかさえ判断出来なかった。