ハーモニカ
沈鬱な表情に生への執着が見て取れる。建前で散華を望む切なさより、人間らしくてずっと良いと信乃夫は思った。
「だったら、生きて帰ればいいことだろう」
印南は信乃夫を見た。
「特攻と言っても零戦みたいに一機で突っ込むわけじゃないんだし、確実に死ぬとは限らないじゃないか」
「池辺」
「妻子のもとに帰るんだって気持ちがあったら、簡単に諦めないだろう?」
信乃夫は笑った。
「池辺も、そんな風に想う相手がいるのかい?」
信乃夫は目を印南から海の方に向けた。
「いると言えばいるかな」
手すりに肘をつく格好でもたれると、尻ポケットに入れたハーモニカが存在を主張する。信乃夫はそれを取り出して見つめた。
「片想いだけれどね」
「池辺だったら、どんな女とも想いを通わせられるだろうに」
「望みのない相手なんだ」
「なんだ? 成さぬ仲? もしかして人妻なのか?」
さきほどまで神妙だった印南の表情が、少し和らいでいる。黙っていれば哲学者に見えなくもない彼だが、普通に俗なところも持ち合わせているらしい。
「まあね、いずれは人のものになってしまう人さ。それにもともと僕は楽観的だから、いつだって生き残る気ではいるんだよ。運も良さそうだし。何しろ『不沈』と渾名される軍艦に乗ることが出来たのだからね。それだけでも確率が高くなると思わないか?」
印南は「なるほど」と妙に納得した風で、ようやく心から笑みで頬が動いた。
「彼女も音楽を?」
「ヴァイオリンをね。僕がいつも伴奏をしていたんだ。またあのヴァイオリンと合わせたいと思っているよ。もっとも、もうずい分ピアノに触っていないし、手は傷だらけだから、前のように弾けるかどうかわからないけど」
左手の甲と手のひらを反転させながら見る。細かな切り傷や火傷の痕がついていた。手すりを鍵盤に見立てて弾く真似をする。指先に伝わる手すりの冷たさが、冬の日のピアノの鍵盤を思い出させた。
信乃夫の軽やかな指の動きを見て、印南は「いつか池辺の演奏を聴いてみたいな」と言った。
「じゃあ、それも僕の生き延びる理由の一つに加えておくから、君の『覚書』にも入れておいてくれよ」
印南は一瞬瞠目した後、今度は口元にはっきり笑みを浮かべ頷く。
「そうだな。ぜひとも彼女との合奏を、家族で聴かせてもらうよ」
「それまではこれで我慢してもらおうかな」
右手に持っていたハーモニカを唇に押し当てる。短いスケールで音の出を確認した後、『すみれの花咲く頃』を吹き始めた。尚之が出征するとわかった慰問カルテットの最後の練習の日に、容子の歌と信乃夫の伴奏で餞別とした曲だ。途中で尚之自身がヴァイオリンで加わり、信乃夫にとって忘れえぬ曲になった。
第一期の学徒出陣で一足先に尚之は陸軍に入営した。大陸に出征した後、連絡は取れていない。三月に東京は大空襲に見舞われ、容子や信乃夫達『慰問団』の一員となった下級生の高柳鼎の安否も知れなかった。
(みんな、無事なのかな)
自分の唇が奏でる旋律を耳にすると、あの教室で聴いた尚之のヴァイオリンの音色と、容子の美しいソプラノが甦る。
信乃夫は目を閉じて、その音色に想いを馳せた。