和尚さんの法話 「地獄」
『必ず死ぬのです』
昔の人はこの地獄というのを本気で信じていた人がたくさんあったと思うのですが、現在の人はこの地獄というのを信じていないから今日のように簡単に人を殺したり、物をとったり、詐欺をしたりということをするわけですね。
それで死後に悪いことをした人があの世で地獄に落ちていると思うのですが、地獄というのは、この世でいう監獄なんですね、牢獄です。
それを信じない人、それは今は坊さん自身も信じていないようですね。
以前に和尚さんの宗派の坊さんはどれくらいあの世を信じているのだろうとアンケートをとったら八割の坊さんがあの世を信じていないんです。
八割の人が信じて二割の人が信じないというならまだわかるけど、八割の人が信じてないというのだから逆なんですね。
これはこの宗派だけじゃなくて、全仏教会全体の割合もやっぱり同じではないかと思うのです。
ですから悪いことをすると地獄へ落ちるぞと、本気で思って説く人が居ないということですね。
これは坊さんの無責任というのでしょうか、信心の不足ですね、ほとんど信仰がないんですね。
だから、どういうことをお説教するかというと、この世のことばかりで、人間は生きてきた、この一生を大事にせないかんというような、説き方になってきて、この世のことばかり言って死後の世界を説かないんですね。
昔はお坊さんが病院へ行くのは敬遠されたそうです。
坊さんというと死ぬということと連想しますから、坊さんが病院へ来るということはお迎えが来たというような印象を持つわけなんですね。
ですから病院へお見舞いに行くときは洋服に着替えていったそうです。
ところが最近はどういうことか、病院から 「病人さんに対して、和尚さんから話しを聞かせてあげて欲しい」 という意見が病院から出てきたようです。
そしてお寺のほうも話し合いをして、坊さんだったら誰でもいいというわけにはいきませんので、話しの得ての人を募集して、そういう団体を作って当番制になって、何処何処の病院に誰が行くという指示を出して尾は為しに行くそうです。
和尚さんも誘われたそうですが、然し、おそらく他の坊さんと意見が合わないと思うので断ったそうです。
それは和尚さんが行くと死ぬことばっかり説くから。
「安心なさいまし、あの世があるのだから、この世の行いによって、あの世の行くところが違うんだから、だからあの世の用意をしておかないといけないんですよ」 と、そういう説き方をするけど、他の坊さんはそうじゃない、 「この今が大事です、今日一日が大事です」 というような説き方をするので意見が合わないんですね。
病院へは一日だけ話に行くんじゃなくて、半永久的に続くんですから、きっと他の坊さんの説くことと和尚さんの説くことが違うから病人さんが聞いてて問題になるんじゃなかろうかと思うのです。
あの和尚さんはこう言うたけど、この和尚さんはこう言うとね、そういうのが問題になってくるんじゃないかなという気がしましたので、そういうお話をしに行くことを断ったそうです。
おそらくあの人達は、この世のことばっかりを説くから。
和尚さんのお寺はもうひとつありまして、そちらのほうでも同じように仏教会というのがあるんだそうです。
毎回は出席しないんですが、時々行くんですね。
お話を伺ってみますと、和尚さんより少し若い浄土宗のお寺の和尚さんとお茶を飲みながら、 「仏教って、無力だなー」 って、言ってきたんだそうです。
何が無力だと言っているのだろうと思って聞いてみると、その人の弟さんが癌で入院しているんです。
それで見舞いに行くんですが、言うことが何も無いというのです。
力付けてあげる話が出てこないというのです。
それで 「仏教って、無力だなー」 って言っているんです。
それはその人に信仰が無いからですね。
だから頑張れよ心配するな手術は成功するんだからと、この世のことばっかり言って死後のことは全然出こないし、あの世を説く言葉が出て来ないのですね。
おそらく檀家さんのところに行っても同じようなことで、それはもう・・・
死ぬより他に道は無いという人には、浄土門はお念仏を唱えなさいよ!
お念仏が一番大事なんですよ、と言うような話をしなけりゃいけないのにそんな話はおそらくしない。
そんな話をその人は出来ないもんですから、言うことが無くなって 「無力だなー」 と、思ったというのです。
あの世には極楽もあるし、地獄もあるんです、地獄を本気で信じたらほとんど犯罪は無くなると思うのです。
況や人を殺すとか子供を殺すとかね、そんなことはおそらく無くなると思うのです。
で、この地獄を説いたお経があるんです。
今の坊さんは地獄もだけど、お経そのものを信じないんですね、お経を仏教文学というので信じないんですね。
然しながら、お経にちゃんと地獄を説いてあるので、これをお話したいと思います。
『お地蔵さまの前世』
これは地蔵菩薩本願経というお経です。
一、「婆羅門の娘然(しか)も空に申して白く、」
この婆羅門の娘とうのは、お地蔵さんの前世のあるひとつのことでして、お地蔵さんは前世で女性であった時代の話です。
お地蔵さんだって初めから菩薩じゃないんです。
だから凡夫の時代から生まれ変わり死に変わり繰り返して修行をして、地蔵菩薩となったわけです。
或るときは婆羅門の娘といって、女性であったときもあるんです。
その娘さんの母親が業が深くて死ぬんですが、その娘さんが、お母さんはあんなことをしていたけど何処へ行っているのだろう良いところへ行ってればいいけど、まさか良いところへは行ってないだろう、どんなところへ行っているのだろうと、そればっかり日々心配してたのです。
この娘さんが存在する五百年ほど前に、今から三千年昔にはお釈迦様がこの世にお出ましになりました。
それと同じように婆羅門の娘が生存している、五百年過去に一人の仏様がこの世に出て来られてその仏様が自在王如来と言う。
その自在王如来をお祭りしているお寺があるのですね、そのお寺が傷んできたので婆羅門の娘が母の功徳のためにとお寺を大修理するのです、そしてそこへ毎日参詣していたわけです。
そしたらある日に天から声が聞こえてきたのです、拝んでいたらね。
毎日、ここへ来て私の母はどうしていると祈っていたら、天から声が聞こえてきたんです。
その声が
「『願わくは仏、慈愍して速やかに我が母の生界を説き給え』と。
時に覚華定(かくかじょう)自在王如来、聖女に告げて曰く『汝供養し畢(おわ)ってただ早く舎に帰って端坐(たんざ)して吾が名号を思惟せよ、即ち母の所生の処を知るべし』と。」
家に帰ってちゃんと正座して吾が名を南無覚華定自在王と唱えよと言う天の声が聞こえたのです。
阿弥陀さまのお念仏だけがお念仏ではなくて、南無地蔵菩薩とか、南無釈迦如来とかいろんな仏様が居られますので仏様の名を唱えるのが大事なんです、
とにかくどの仏様でも信仰をしている仏様の名を唱えるということが非常に大事なことなんです。
そして家に帰って一所懸命にお念仏を唱えていたのです。
昔の人はこの地獄というのを本気で信じていた人がたくさんあったと思うのですが、現在の人はこの地獄というのを信じていないから今日のように簡単に人を殺したり、物をとったり、詐欺をしたりということをするわけですね。
それで死後に悪いことをした人があの世で地獄に落ちていると思うのですが、地獄というのは、この世でいう監獄なんですね、牢獄です。
それを信じない人、それは今は坊さん自身も信じていないようですね。
以前に和尚さんの宗派の坊さんはどれくらいあの世を信じているのだろうとアンケートをとったら八割の坊さんがあの世を信じていないんです。
八割の人が信じて二割の人が信じないというならまだわかるけど、八割の人が信じてないというのだから逆なんですね。
これはこの宗派だけじゃなくて、全仏教会全体の割合もやっぱり同じではないかと思うのです。
ですから悪いことをすると地獄へ落ちるぞと、本気で思って説く人が居ないということですね。
これは坊さんの無責任というのでしょうか、信心の不足ですね、ほとんど信仰がないんですね。
だから、どういうことをお説教するかというと、この世のことばかりで、人間は生きてきた、この一生を大事にせないかんというような、説き方になってきて、この世のことばかり言って死後の世界を説かないんですね。
昔はお坊さんが病院へ行くのは敬遠されたそうです。
坊さんというと死ぬということと連想しますから、坊さんが病院へ来るということはお迎えが来たというような印象を持つわけなんですね。
ですから病院へお見舞いに行くときは洋服に着替えていったそうです。
ところが最近はどういうことか、病院から 「病人さんに対して、和尚さんから話しを聞かせてあげて欲しい」 という意見が病院から出てきたようです。
そしてお寺のほうも話し合いをして、坊さんだったら誰でもいいというわけにはいきませんので、話しの得ての人を募集して、そういう団体を作って当番制になって、何処何処の病院に誰が行くという指示を出して尾は為しに行くそうです。
和尚さんも誘われたそうですが、然し、おそらく他の坊さんと意見が合わないと思うので断ったそうです。
それは和尚さんが行くと死ぬことばっかり説くから。
「安心なさいまし、あの世があるのだから、この世の行いによって、あの世の行くところが違うんだから、だからあの世の用意をしておかないといけないんですよ」 と、そういう説き方をするけど、他の坊さんはそうじゃない、 「この今が大事です、今日一日が大事です」 というような説き方をするので意見が合わないんですね。
病院へは一日だけ話に行くんじゃなくて、半永久的に続くんですから、きっと他の坊さんの説くことと和尚さんの説くことが違うから病人さんが聞いてて問題になるんじゃなかろうかと思うのです。
あの和尚さんはこう言うたけど、この和尚さんはこう言うとね、そういうのが問題になってくるんじゃないかなという気がしましたので、そういうお話をしに行くことを断ったそうです。
おそらくあの人達は、この世のことばっかりを説くから。
和尚さんのお寺はもうひとつありまして、そちらのほうでも同じように仏教会というのがあるんだそうです。
毎回は出席しないんですが、時々行くんですね。
お話を伺ってみますと、和尚さんより少し若い浄土宗のお寺の和尚さんとお茶を飲みながら、 「仏教って、無力だなー」 って、言ってきたんだそうです。
何が無力だと言っているのだろうと思って聞いてみると、その人の弟さんが癌で入院しているんです。
それで見舞いに行くんですが、言うことが何も無いというのです。
力付けてあげる話が出てこないというのです。
それで 「仏教って、無力だなー」 って言っているんです。
それはその人に信仰が無いからですね。
だから頑張れよ心配するな手術は成功するんだからと、この世のことばっかり言って死後のことは全然出こないし、あの世を説く言葉が出て来ないのですね。
おそらく檀家さんのところに行っても同じようなことで、それはもう・・・
死ぬより他に道は無いという人には、浄土門はお念仏を唱えなさいよ!
お念仏が一番大事なんですよ、と言うような話をしなけりゃいけないのにそんな話はおそらくしない。
そんな話をその人は出来ないもんですから、言うことが無くなって 「無力だなー」 と、思ったというのです。
あの世には極楽もあるし、地獄もあるんです、地獄を本気で信じたらほとんど犯罪は無くなると思うのです。
況や人を殺すとか子供を殺すとかね、そんなことはおそらく無くなると思うのです。
で、この地獄を説いたお経があるんです。
今の坊さんは地獄もだけど、お経そのものを信じないんですね、お経を仏教文学というので信じないんですね。
然しながら、お経にちゃんと地獄を説いてあるので、これをお話したいと思います。
『お地蔵さまの前世』
これは地蔵菩薩本願経というお経です。
一、「婆羅門の娘然(しか)も空に申して白く、」
この婆羅門の娘とうのは、お地蔵さんの前世のあるひとつのことでして、お地蔵さんは前世で女性であった時代の話です。
お地蔵さんだって初めから菩薩じゃないんです。
だから凡夫の時代から生まれ変わり死に変わり繰り返して修行をして、地蔵菩薩となったわけです。
或るときは婆羅門の娘といって、女性であったときもあるんです。
その娘さんの母親が業が深くて死ぬんですが、その娘さんが、お母さんはあんなことをしていたけど何処へ行っているのだろう良いところへ行ってればいいけど、まさか良いところへは行ってないだろう、どんなところへ行っているのだろうと、そればっかり日々心配してたのです。
この娘さんが存在する五百年ほど前に、今から三千年昔にはお釈迦様がこの世にお出ましになりました。
それと同じように婆羅門の娘が生存している、五百年過去に一人の仏様がこの世に出て来られてその仏様が自在王如来と言う。
その自在王如来をお祭りしているお寺があるのですね、そのお寺が傷んできたので婆羅門の娘が母の功徳のためにとお寺を大修理するのです、そしてそこへ毎日参詣していたわけです。
そしたらある日に天から声が聞こえてきたのです、拝んでいたらね。
毎日、ここへ来て私の母はどうしていると祈っていたら、天から声が聞こえてきたんです。
その声が
「『願わくは仏、慈愍して速やかに我が母の生界を説き給え』と。
時に覚華定(かくかじょう)自在王如来、聖女に告げて曰く『汝供養し畢(おわ)ってただ早く舎に帰って端坐(たんざ)して吾が名号を思惟せよ、即ち母の所生の処を知るべし』と。」
家に帰ってちゃんと正座して吾が名を南無覚華定自在王と唱えよと言う天の声が聞こえたのです。
阿弥陀さまのお念仏だけがお念仏ではなくて、南無地蔵菩薩とか、南無釈迦如来とかいろんな仏様が居られますので仏様の名を唱えるのが大事なんです、
とにかくどの仏様でも信仰をしている仏様の名を唱えるということが非常に大事なことなんです。
そして家に帰って一所懸命にお念仏を唱えていたのです。
作品名:和尚さんの法話 「地獄」 作家名:みわ