りんごの情事
つやつやとした來未の黒髪を撫でながら、静かに話す明吉。來未からはふわりと心地よい優しい香りが漂う。
「甲子園が終わってな、1週間だけ帰省許可が出てるんだ。本当は実家に帰らないといけないんだけど、ちょっと時期が合わなくて、帰省はしないんだ。それで、行ってみたいところがあるから、來未に連れて行って欲しいんだ。」
來未はひたすら嗚咽し、言葉を返さないが、明吉はひとり言のように続ける。
「來未が育った福井に行ってみたい。そんで、來未を傷つけた奴のことをぶん殴ってしまいたい。そんなことして事件になったらニュースになっちゃうかもしれないけど、秘密裏にやってしまいたい。」
ムサシが心配そうに二人を見つめる。悲しそうに「くうん」と声を出して、行く末を見守る。
やがて、來未は落ち着きを取り戻し、顔を上げようとした。が、涙と汗で顔が汚れて、あげがたい。
そっと明吉の胸元を押し返して、明吉から一歩離れた。そして、腕でぐじゃぐじゃになった顔を手で拭って、明吉を見上げた。
「明吉さん、すみません、ちょっと取り乱しちゃいました。」
明吉は微笑みながら「うん」と言った。
「…私…、…私…、…」
來未は言葉を続けようとするが中々出て来ない。深呼吸をして呼吸を整えて、息を吐き出すように言の葉を出す。
「私も、多分明吉さんのこと、好きです。でも、なんだか色んな事がひっかかってどうしたらいいのか分からないんです。」
「うん。」
「だから、ちょっとだけ、待って下さい。」
「うん。待つよ。」
來未はまた泣きそうになったが、口を真一文字にきゅっと閉じて堪えた。
「來未、聞いてくれてありがとな。今日はもう帰ろう。なんだか今の來未は危ういから、送って行くよ。ちょっと兄貴のところにも寄りたいし。」
そう言われて、來未は黙ってうなづいた。
明吉は來未の前に立って歩き始めた。その後はムサシが続く。ムサシのリード持った來未は、ムサシに引っ張られて歩いていく。どちらが散歩されているのかがあやふやな状態だ。明吉はちらりと振り返り、來未がムサシに引っ張られている様子を見ると、ぷっと吹き出して、そのまま歩み続けた。
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二日後。二人旅が始まる。
本来の予定であれば、政宗に車を出してもらい、車で福井に行くつもりであったが、政宗は外せない用事があるということで、政宗は明吉にお金だけ渡してことの行く末が上手くいくように応援した。仁田村は実家に帰省。龍は部活の合宿。他も皆外せない用事があるらしい。
政宗が用意してくれたお金は思いの外少なかったので、行きは電車。帰りは高速バスを使うこととなった。本当は行き帰り高速バスの予定だったが、行きの高速バスのチケットが満席のため、取れなかった。
東京駅から鈍行で福井へ向かう。二人は隣同士になって席に座る。
「俺、福井に行くの初めてだ。」
「私も電車で行くのは初めてです。」
東京から福井までは電車で10時間ほどかかる。早朝の電車に乗って、到着するころには夕方になっている。來未は暇つぶしに文庫本を2冊ほど鞄にひそめていた。
しかし、混乱状態だったとはいえ、まんまと明吉の提案に乗ってしまった。
ただ、後悔はしていない。福井に行って、大崎に会うべきだと來未も思うからだ。明吉と二人っきりであることが不思議な感じだが、心強くも感じる。仁田村が傍にいてくれる場合も心強いが、また別のものだ。
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「明吉さんって、プロ野球選手を目指してるんですか?」
來未がずっと気になっっていたことを質問してみた。ここまで頑張り続ける明吉にはきっと何か理由があるのではないか、と思っていた。沢山の少年達が夢見て憧れる職業。だからこそ、彼らは誰よりも上手くなろうと、白球を追いかける。
明吉は、何かを考えるようにして空を見つめた。
「なれたらいいな、って思ってたけど、それくらいだ。本気で目指していたわけではないんだ。」
「じゃぁ、どうしてこれまで野球を続けてきたんですか?」
「俺、いらない子だったんだ。」
來未はどういうことなのかと思い、明吉を見た。明吉は思いふけるように青空を見つめている。
「まぁ、簡単に言えば出来過ぎた兄貴を持ってしまったという不幸のせいだね。兄貴が何でもできちゃうから、俺は比較されちゃうというか。結構勉強も頑張ってきたんだけど、模試で1位を取ってしまうような兄貴を持つと、成績が上の下なんて些細なことなんだ。そんな劣等感の中で育ってきたんだけど、少年野球で初めて優勝した時、初めてみんなから褒められて、認められて、嬉しかった。野球をやっていれば自分は認められるんじゃないか、と思って続けてきたんだ。簡単に言えばこんな感じ。」
電車は徐々に都市から離れていく。ビルや住宅が少なくなるにつれて、電車内の人も減っていく。いつしか車内は來未と明吉の貸し切りになっていた。
「でもさ、プロ野球選手になって、成功したら、きっと兄貴を超えられるかな。」
明吉は來未の方を向いて冗談交じりに笑った。
「明吉さんは、明吉さんですよ。政宗さんがどうであろうと、明吉さんは立派です。政宗さんが天才であっても、努力をし続けてここまで頑張ってきた明吉さんにはかなうはずがないと、私は思います。それに、野球、好きなんでしょう?好きだからずっと続けてこられるって凄いことだと思います。」
明吉ははっとして來未から視線を外し、背を向けた。
「明吉さん?」
「ごめん、ちょっと待って。」
來未に背を向けた明吉は黙って窓の外の青空を仰ぐ。車内は冷房が効いていて涼しいが、外は溶けるように暑そうだ。
しばらくして明吉は振り返り、目を赤く潤ませつつもぎこちなく笑みを浮かべた。
「明吉さん、変顔ですか?」
「來未ちゃんって子は!」
明吉は思わず叫んでしまったが、その表情からは自然な笑顔が溢れていた。
「いや、來未、お前は不思議な子だな。うん。俺、野球好きだな。」
「明吉さんが野球好きなの、みんな、知ってますよ。」
「あぁ、そうだな。」
明吉は自分の手を見つめた。
初めて政宗とキャッチボールをした時のことを思い出した。
初めてグローブでボールを掴んだ時の感触は今でも覚えている。
楽しかったのだ。
明吉は來未に向かって、小さく「ありがとう」と呟いた。