りんごの情事
すかさず中断となり、明吉の周りに監督と野手たちが集まる。
騒然とする秀麗学園側アルプス。
昨日までの覇気は一体どこへ。
見た感じには、明吉からは昨日と同じくらいの覇気を感じていた。いや、昨日以上のものがあった。
もしかすると、伝統の強豪校の力は彼らを優に上回っているのかもしれない。
数分後、監督やそれぞれの選手達が所定の場所に戻り、試合が再開された。
2回裏ではその後明吉が2者凡退に抑えた。あの鬼のような気迫は健在である。
残念ながら、3回は両者とも点を稼ぐことは出来なかった。両投手が奮闘して、3者凡退に抑えあった。同様に4回も進む。5回裏では、外野のエラーにより吾妻大付属に2点追加された。
6回に入り、秀麗学園がコツコツと安打を出し、1点を加えた。しかしその回は1点しか加えられなかった。
7、8回も、膠着状態が続いた。両者とも点を加えることが出来ない。ただ、4点もリードした吾妻大付属高校側は若干の余裕があるように見える。秀麗学園は4点もリードされた状態で、最終回を迎えてしまっている。これが抱えているものと実力の差なのか。
最終回、幸運にも、一塁と二塁に走者を置いて、明吉に打順が回って来た。
バットを片手に、秀麗学園側のアルプスに向けて掲げる。ホームラン予告だ。届くだろうか。ブラスバンドの応援歌がけたたましく鳴り響く。明吉は気持ちが高まって行くような感覚を覚えた。まだノーアウトであるにしても、おそらくこのチャンスを逃したら、終わるであろう。自分達の夏は、終わるであろう。それは悲しい。
ここまで、明吉は卑屈な劣等感で頑張って来た。天才の兄を持ち、両親は明吉にに注目してくれなかった。ずっと自身の存在に疑問を抱いていた。自身の存在意義を得るために、ただひたすらがむしゃらに野球に打ち込んできた。誰よりも野球が上手くなって、、天才の兄を超えることが出来れば、この浮遊感を解消することが出来るのではないかと、藁にも縋る思いで頑張って来た。
プロ野球選手になりたいから練習に打ち込んでいたわけではない。ただ、自分が生きている、生きていて良いんだという実感が欲しかった。だから、勝つことが嬉しかったし、チームのレベルが向上していくことも嬉しかった。
どうだろう、今の自分は兄、政宗を越えることが出来ているだろうか。
政宗のことは大好きだ。自慢の兄だ。でもあえて口にはしない。
こんな卑屈な自分のこと、あの子はどう思うだろうか。
わざわざあの子が来てくれたから、明吉にはこの勝負に挑むもう一つの理由が出来たのだ。
それは単純な理由だ。あの子に格好良い姿を見せる。ただそれだけである。だがしかし、それは逆に言えば格好悪い姿は見せられない。絶対に。だから、どんなことをしてでも明吉は勝たなければいけないのだ。
正直、自分の意志だから、この感覚はとても心地よい、と明吉は思う。
吾妻大付属高校の投手、周防が投げた第一球は、光り輝いて見えた。決して眩しくない。大変心地よい光だ。これは打ち返して、元の場所に返さないといけない。
明吉は口元を片方だけにっと上げると、大きくスイングした。カーンと爽快な音が鳴り響き、その光は大きく飛びあがっていく。アルプスからは歓声が湧いた。光はどんどん空へ伸びあがっていく。光は、まるで太陽のように輝き、そして、あっという間に落陽していった。
再び歓声が湧いた。ブラスバンドのファンファーレが鳴る。
明吉はバットを降ろし、小走りでダイヤモンドを一周する。
天才の兄が珍妙な動きをしているから、あの子がどこにいるかが分かる。明吉はホームベースを踏むと、昨日のようにまた振り返り、天才の兄と來未達がいるであろうアルプスを見つめる。
そして、ベンチへ戻り、チームメイト達と抱擁を交わした。
「さぁ、あと二点でひっくりかえるぞ。まだまだ行くぞ!」
士気は上がった。諦めることが出来ない雰囲気が、チームの中に広がった。
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試合が終わり、そして閉会式も終了して、観客がまばらとなった甲子園で、政宗が一人観客席で泣いていた。他の四人達は遠巻きに彼を眺めている。
日差しは西に傾きつつあるが、相変わらず暑いをこえて痛い。真夏の青空が優しい風と共につわものどもの夢の跡を包み込む。あのブラスバンドの演奏や観客達の歓声、悲鳴はもう聞こえない。秀麗学園の応援に来ていた学生たちは教師達の先導でぞろぞろと甲子園を後にしバスに乗って帰って行った。
自分達も、帰らなくてはならない。
だが、政宗が席を離れない。
感涙にむせびなく政宗。最愛の弟の栄えある勝利に、この上ない幸福を感じていた。唯一の兄として、政宗はおそらく一番近いところで明吉のことを応援してきた。ろくでもない兄のもとで、満たされない思いばかりを抱えて生きてきたであろうことは、政宗だけが知っている事実だ。だからこそ、今日、初めて自分が望む願いを叶えた弟のことが愛おしくてたまらない。
「政宗、帰ろうよ〜。」
仁田村が離れた所から声をかける。
仁田村の声に政宗の心は現実に戻って来て、政宗は涙を拭いて立ち上がると、何事もなかったかのように「はは、わりい、わりい」とへらへら笑いながら仁田村達のもとへ走り寄るのだった。
政宗の通常よりも潤いを持った青い瞳は、甲子園に広がる青空と同じ色だ、と來未は思った。