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りんごの情事

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 仁田村は小袋を漁りながら、明吉を焦らそうとするが、ふと袋の中にクッキーがないことに気付く。どうやら全部食べてしまったようだ。
「あ、もう全部食べちゃった。」
「嘘だ。」
「だからもうないってば、ほら。」
 そう言って仁田村は袋をひっくり返して見せた。袋からはクッキーからこぼれた少量のかすがはらはらと落ちただけだった。明吉は残念そうに「俺も食いたかった。」と一言零した。
「今度、明吉さんの分も作ってきますよ。」
 明吉の落胆を見るに見かねて、來未は口を開いた。その言葉に、明吉の表情に光が戻った。
「本当に?」
 來未は少し考えてから、はにかんだような表情で「はい」と答えた。そして、さらに言葉を続ける。
「さっきニタさんから言われたんですけど、日曜日の夕方だけ、私、ムサシの散歩をやろうと思います。しばらくは一人で家にいたくないのもありますし。だから、来週、作ってきますよ。」
「マジで、やったぜ!」
 來未の言葉に有頂天となり、天に向かって大きくガッツポーズをする明吉。
「くーちゃん、ニタも食べたい!」
「もちろん、ニタさんの分も用意しておきますよ。」
「やった。」
 仁田村も嬉しそうに、にっこりほほ笑んだ。來未も子供の様に喜ぶ二人を見て、自然と顔がほころんでくる。張りつめていた現実だけが來未の現実ではないことが、目の前の二人を見ていると、なんとなく感覚として感じることができるようだった。
 そんな心情の來未を察知したのか、仁田村は穏やかな表情で來未の肩を抱くようにして、ポンポンと優しくたたく。二人の間で昨日の出来事に関する直接の言葉を交わすことはないが、想いは自然に共有出来る。來未は仁田村の存在を有難く感じた。
「え、二人してどうしたの?」
 明吉は疎外感を感じ、つい二人に声をかける。仁田村はにっと口元を上げると
「くーちゃんが笑顔になってくれてうれしいな、と思ってさ。」
と言い放った。明吉はその言葉の意味を掴めずに困惑するが、すぐに仁田村が話題を切り替える。
「せっかくだから、毎週日曜日はムサシの散歩とお菓子作りをしたらいいんじゃない?材料は提供するからニタはくーちゃんのお菓子、毎週食べたいな。」
「あ、ニタさん、ずるい。俺も來未のお菓子食いたい。」
 來未はにっこり微笑んで、
「特別な用事がなければ、是非。どうぞ食べてくださいな。」
といった。すると、仁田村は明吉を見上げながら
「いいね。まぁ、くーちゃんのお菓子は明吉のためじゃないからね、ニタのためだからね。明吉のくせに勘違いするんじゃないよ。」
と言い切った。明吉は言葉に詰まって何も言い返すことができなかった。
「でも、お菓子作りにお散歩、良い気晴らしになります。」
「でしょ。その調子で高校生活も充実させるといいよ。」
「はい。私、保健委員会に入ったので、ちょっとそちらも頑張ってみたいと思います。」
「ふふ、いいねいいね、その調子。」
 そうすれば苦しいことも忘れられる。きっと。
 來未が何か新しい一歩を踏み出そうとしていることに明吉も感じ取りつつあった。今の仁田村と來未は明吉から見ると、つがいのように見えた。足を怪我した鳥とそれを必死に支える鳥のような。何かあったのだろうか、と明吉は思ったが、踏み込むことは躊躇われた。
 そして、少し長居してしまったような気がしたので、明吉はここで二人に別れを告げることに決めた。本当はもうちょっと話していたいところだが、また来週も会えるのだ(しかも手作りお菓子付)。ランニング中なのだからそちらに戻ろう。
「じゃぁ、俺、そろそろランニングに戻るよ。来週、楽しみにしてるな。じゃぁな。」
 そういって明吉は軽やかに走り去っていった。
「そういえば、ニタは来週のバイトは夜番だ。来週は一緒にお散歩できないなぁ。」
 仁田村はぽそりとつぶやいた。
「大丈夫ですよ。お散歩くらい一人で行けますよ。」
「まぁ、そういうことじゃないんだけどね。」
「どういうことですか?」
「秘密。さ、散歩の続き、行こう。そういえば、アリスは明日の朝帰るらしいよ。今晩大学の時のバイト先の同僚と飲みに行くらしいけど。」
 來未はアリスの交友の広さに感心しながら、再びムサシの散歩を再開した。西の空に鮮やかな茜色の夕焼けが広がっている。

作品名:りんごの情事 作家名:藍澤 昴