煌く夢に神の抱擁
「そんなに? 大変だねぇ。そりゃ応援もいるよね」
驚いた顔でユリを見たアンリだが、その顔はあくまでも飄々としてのんきなものだった。しかし瞳の中には愛情と悲哀を湛えているのも、ユリには理解できた。
自由気ままな死神はやる気はあまり感じられないにしても、その中にやはり人間と言う存在に対する底知れない親しみの感情と愛情を持っている。ふとしたことでそれを感じることができるユリは、気まぐれなこのアンリという自分よりも位の高い神を信用し、そして認めていた。
一向に衰えることを知らない炎を青紫の瞳に映し出しながら、アンリはふと不安に駆られる。
「アディーは……無事なのかな」
死亡リストに名前のなかったことは確認していたが、怪我をしないとは言い切れないことに、今更ながら気付いた死神がユリに視線を流した。それに、ユリは白く整った顔に殆ど表情を浮かべることなく口を開いた。
「怪我などの被害については、私の方では確認できません。しかし、死亡者の中にアディーの名前はありませんでした。……ですが」
そこで言葉を切ったユリに、アンリの眼差しがやや不安を持って注がれる。
「何?」
「アディーと言う名前は、本名なのですか?」
「……え?」
「ニックネーム、と言うこともあるでしょう?あなたも、本来はアンリ・オーレリアンという名前ではありませんか」
言われたことに、アンリの元々青白い顔色から一層色が失われた。
確かにそうだ。何でこんな簡単なことに気付かなかったんだろう。
心の中に真っ黒な不安が一気に広がり、鎌を握る手がふるふると震え始めるのを、アンリはこらえることができなかった。
「知らない……」
「はい?」
消え入りそうな声で呟いたアンリの言葉を聞き取ることができなかったユリが、その白い顔を怪訝な表情に変えた。しかしそれにアンリは答えず、気付くと闇夜のローブを翻していた。
「どこに行くのですか」
「アディーのとこに決まってるでしょ!?」
ユリが珍しく声を大きくアンリを止めるが、アンリはそれにかまわず燃え盛る地上に降りようとした。しかしユリがアンリの漆黒のローブの袖を掴み止めた。
「アディーの本当の名前知らないんだもんッ。もしかしたらアディーも巻き添えになってるかも知れないじゃないさッ」
振り返りざまにアンリがユリを睨みつけた。いつものほほんとしたその宝石の瞳がユリの中にまで切り刻もうとするかのように鋭い光を持っていた。
「だからといって私がそうですかとあなたをそのまま行かせるとでもお思いですか。こんなこと許されるはずがありません」
「僕が独断でするんだからユリにはなんにも関係ないじゃない。フロルに怒られるのは僕だけだってばッ」
死神が人間の死に介入することはいかなる理由があっても許されることではない。それはアンリも良く分かっているし、そんなことをしてはアンリの上にいる神、すなわち最高神フロルからどんな処罰を受けるかも分からなかった。
しかし、今のアンリはそこまで考えが及ばないほどに心をかき乱されていた。あの愛らしい人間の女の子に何かあれば、それはアンリにとっても悲しいことであるし、夢を持って頑張っていたアディーの涙も希望も歌声も、失うにはあまりにも惜しかった。どうしてここまでその人間が気になるのかなんてアンリ自身も良く分かっていないが、とにかく何もできないままなのが嫌だった。
しばらくユリと出口のない言い争いを続けたアンリだが、もっともなことを言っているユリに次第に苛立ちを隠せなくなってしまい、持っていた鎌をぐっと握り締め、そのままユリに向かって薙ぎ払った。
薔薇の蔦の絡みつくアンリの鎌が空気を裂き、銀色の鈍い光を纏いながらユリに向けられる。一瞬大きく目を見張った白いローブの死神がそれを翻して後ろへと後退した。刃から逃れる際にローブの裾のあたりにアンリの鎌が触れ、音もなく白い生地を切り裂いた。
「僕の邪魔をするな!!」
短く言い放ったアンリの瞳が、闇夜の中に輝きを持ち浮かび上がった。長い睫毛に囲まれたアンリのそれがまっすぐにユリを見据え、陰惨な光と闇を持って厳しい色を滲ませた。
いつもより低められたその声と、初めて見るその眼差しにユリの瞳が信じられないものを見たようにアンリに縫いとめられる。
「この責任は僕が取る」
またアンリが短く言葉を継ぎ、そのままユリに背を向けた。言い争っている間に肩に落ちたフードをほっそりとした手で頭を隠すようにかぶり直して、少しだけユリを振り返り、いつものあどけない笑顔を浮かべた。
「ごめんね。ローブ切っちゃって」
それだけ言うと、アンリが自身の姿を瞬きの間に掠めさせて、やがて輪郭もなくなりユリの前から姿を消した。
一人残されたユリが、全身強張っていた身体から力を抜くように、大きく深く息を吐き出した。消えたアンリの眼差しを思い出して、藍色の瞳を揺らめかせながらこめかみに長い指を添えて軽く頭を振った。
「あなたと言う人は……何でもかんでも思うままに動けば良いというものではありませんよ」
そう呟いた瞳には、どこか楽しそうな、そしてうらやましいといった感情も滲ませていた。
足元に広がる炎は依然として勢いを保ち、多くの人間の命を危険に晒していた。
***
「あー、もう鬱陶しいなぁ」
炎の中でアンリはそんな間の抜けたことをしかめっ面でぼやいていた。燃え滾るような熱を身体に感じてはいるものの、元々死神であると同時に火を司る神でもあるアンリには、現世の炎などたいした脅威でもなかった。自身の身体に結界を張り、死神のローブをたゆたわせ大きな鎌を手にしたアンリはふわふわと火事の真っ只中に身を置いている。
勢いあまって降りてきたは良いがアディーがどこで何をしているのかも、正直分からないままだ。
炎の中で、アンリが生きている者の気配を感じ取ろうと懸命に意識を凝らして探る。
「アディー……、大丈夫かなぁ?」
心配そうな声音で何度か同じことを言いながら、あの愛らしい女の子の気配がないことを祈りながら、すっかり焼け落ちそうになっている建物の中を歩き回った。
火が上り始めてどれくらいの時間がたったのだろうか。既にアディーが火事に飲み込まれた可能性がないこともなく、アンリの顔に次第に焦りが見え始めた。
こんなことならしっかりとアディーのことを調べておけばよかったと、死神が幾度も後悔しては、その整った眉間に忌々しげに皺を刻む。
劇場から出た炎は風に乗り、近隣の施設や安いアパートを含む広い範囲で犠牲者を出しているようだ。安い古びたアパートには、この街に夢を持ってやってきた若い役者たちが大勢暮らしている。壁がひび割れて雨漏りさえしてしまうようなそこに住みながら、将来は喝采を浴びて大きな舞台で夢をかなえることを何よりも生きる励みとしている人間たちの希望を詰め込んだ、アンリにはまぶしさすら感じてしまうアパート。いくつものそれをアンリは火を避けながら歩き回った。
「っていうか、らち明かない」