煌く夢に神の抱擁
歌い終わったアンリが長い睫毛を伏せていた瞳を開くと、そこには顔を上げたアディーの姿があった。
「アディー?」
変わらず生気のない顔つきではあるが、それでもしっかりとアンリに向かって視線を止めている。それに無性にアンリは嬉しさを感じた。
「僕が歌うなんてめったにないんだからね? 感謝してよね」
冗談っぽくアンリが言って、美貌を掠めさせるくらいに無邪気に微笑んだ。しかしその瞳にはまだ涙の名残がある。
「本当ですね」
そんなアンリに抑揚のない神経質そうな声が聞こえた。振り返ると白いローブを着たユリがいつの間にか立っている。闇の中にふわりと浮かんだ白いそれを緩やかに翻して、ユリはアンリのそばに近づいた。
「あなたの歌声、久しぶりに聴きました」
「だよね……だって最近歌ってないもん」
「相変わらず良い声をしてますね」
「どうせほめてくれるなら、もっと言い方考えてくれない? 辛気臭いよ?」
淡々と言ったユリに対してアンリがぷーっと頬を膨らませた。それにユリが小さく笑いを零す。
「歌ってるあなたは素敵ですね。これは本当に思っていますから信じてください」
「別に疑ってるわけじゃないけど……」
「それにあなたは本当に優しいです。やはり死神なんて止めて他の神にでもなればいかがですか?」
以前と同じことを言って、ユリがからかうようにアンリを見つめた。しかしその深い色を湛えた藍色の瞳の奥底には優しさも含まれている。アンリは少しだけ考えた後、にっこりと笑った。
「僕はこれで良いんだよ。死神なんて最初はどうでもよかったけど、今は好きなの」
そのまま視線を流してアディーを見る。アディーは顔をアンリに向けてはいるが、感情のまったくない様子はそのままで、ぼんやりとした瞳が悲しげに見えた。
アンリが何度か大きくため息をついてアディーを見つめていたが、これ以上どうすることもできないことは身に染みて理解している。切なげに眉根を寄せた死神がやわらかい手つきでアディーの滑らかな髪の毛を一つ撫でた。
「ごめん、僕はこれ以上何もしてあげられない」
また声が震えてしまう、涙は何とか我慢することができたが、アンリの声が子供のように震えていることは、白い死神にも容易に理解できた。
そのアンリを見つめながらユリが長めの前髪の間から澄んだ色の瞳をほんの少しだけ穏やかに細めた。
「黙っていて差し上げますから」
「……へ?」
「黙っていて差し上げますから、連れて行ってあげてください」
何を言われたか分からなかった。連れて行く? どこに?
間抜けな表情のまま自分を見つめているアンリを、ユリは穏やかに笑みを湛えて見返した。そして白いローブを翻して背を向ける。
「あなたに出会えたことは、この子にとって一番の幸せなのかもしれません。その幸せをここで終わらせるのは忍びないので、常世へと連れて行ってあげてください」
自殺した魂は、常世へと行く権利がない。
それは勿論ユリだって理解していることだった。しかしこの神経質そうなまじめな死神は、アンリの心を感じ取り、決して許されることのない行為を黙認しようとしている。まさかユリがこんなことを言うなんて思いもしなかったアンリの瞳が信じられないものを見たように見開かれた。
白く穏やかな光を纏いながら姿を掠めさせたユリがふと振り返り、少し意地悪げにアンリへと視線を投げかける。
「このことが最高神に知られたときは、あなたに脅されたって言いますからね。責任は取ってください」
そしてやわらかく子供のように微笑んでふんわりと完全に姿を消した。
残されたアンリはしばらくの間呆然としたように立っていたが、やがてあどけなく微笑んだ。
「ありがとね、ユリ」
邪気のない笑顔のユリを思い出して、アンリの胸がほんのりと温かみを帯びる。それから改めてアディーに向き直り、更に穏やかに目許を細めて、きゅっと、そっと抱きしめた。
「じゃあ、いこっか」
腕を解くと、魂の開放を意味する言葉を紡ぐ。
自身の持っている死神の鎌で、魂を救い上げるための言葉を大切そうに紡ぎながら、アンリの顔はニコニコと綻ぶままに笑っていた。
煌く夢を持った若き人間の魂に抱擁を与える言葉は、静かな劇場の中に優しく溶けていった。
了