アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一
二日目・朝 ―未知との遭遇―
一連の作業を終え、正式に平家の付き添いを引き受けた翌朝。
暫くは早めに出て、朝練の見学でもするかと珍しく七時台に部屋を出ると、壁の向こうに変なものが見えた。
『モヒカン』。
そう表現するしか無いものが、壁の向こうに生えている。
「……ん?」
平家が何者かに付けられているかも知れない折も折、付け回されているのは祐一自身もなのだろうか。
それとも、早くも実家からの追跡者の気配なのか、と訝しんでいると、モヒカンのたてがみは、明らかに自分とは違う方向を向いている。
その上に、くしゃみをした。
どうやらこの『客』は、自分宛のものではないらしい。
自分の知っているような相手にしては、ちょっとお粗末すぎる。
祐一は内心安堵しつつ、出発しようとすると、玄関のドアが開いた。
同時に、背後から知っている気配がする。
コンクリの先にいるモヒカンの気配(というか、モヒカンそのものの立ち具合)が、明らかに色めき立つのが『視えた』。
この緊張具合からすると、『モヒカン(仮称)』の相手はどうやら自分の背後に居るハイツの住人らしい。
「何だ?」
とはいえ、あの善良を絵に描いたような、加えて人情派でそんなものとは全く縁の無さそうなあの人に、何故あのモヒカンがアレほどの注視を注ぐのか、祐一には全く見当がつかない。
ただ、モヒカンの気配は緊張感の中にも何処か、『標的を見ているのではない』イメージが何となく感じられる。
何と言うか、敵意を持って標的を確認している緊張感と言うよりは、使命感のような、何かだ。
「何が、『何だ?』なんだい?」
疑念と共にコンクリの先を中止していた祐一に、玄関から出てきた人物が声を掛けてきた。
声の主は『尾路山誠二』さん。
アインシュタイン・ハイツ二〇三号室の住人にして、会社の名前は知らないが、確か何でも屋で経理だか営業だかを担当していると、花見の席で聞いた気がする。
花見の席ではハイツの大人たち(約一名、危険な人がいたが)の良識派ぶりに驚いたものだが、中でも目の前の尾路山さんは人の良さが際立っていたような気がする。
「いえ、別に。おはようございます」
祐一は尾路山さんの方へ向き直ると、いつものように挨拶をした。
尾路山さんは何処か人好きのする笑顔で『おはよう』と返事を返してくると、次いでハイツの入り口に立ち尽くしている祐一に疑念を抱いたのか、頭を掻きながら訊ねてきた。
「こんなところで立ち尽くしてどうした。ロンブー……あー、アインでもいたのか?」
尾路山さんが普段は『ロンブー』と呼んでいるあの猫は、人によって色々な呼び名で呼ばれていて、祐一は『アイン』と呼んでいる。
尾路山さんが祐一に合わせて、『ロンブー』の事を『アイン』と言い直したところが、この人物の侮れない所だと祐一は感じていた。
要するに、『自分の基準を持ちながら相手に合わせる』という配慮が出来て、更にそれが根付いているということだ。
その事によって、尾路山さんという人物が、アインシュタイン・ハイツに引越してきたばかりにも関わらず、花見の席に同席した住人たちから多くの信頼を獲得したという事実に本人は恐らく気付いていないのだろうが、そこもまた、この人の魅力である。
一方で、尾路山さんが言葉を発すると、小さく膝が鳴る音と共に、モヒカンの頭がひょっこりと隠れた。
衣擦れの音からしても間違いない、しゃがんだ。
しかも、癖になってるのか、運動不足なのかは知らないが、膝、鳴ってるし。
加えて、祐一の鋭敏な耳には、モヒカンの息を殺している様子までが、ハッキリ感じ取れた。
そもそも、その格好で見張りって、プロとして、それはどうだろう、色んな意味で。
「いえ、今そこに人がい」
そこまで言った所で、コンクリの向こう側から、靴がアスファルトを滑る音がした。
祐一の言葉に慌てて、モヒカンは何か余計なリアクションをしたようだ。
(これは何か、尾路山さんの側の『訳あり』だな…。余計なことに口を挟まない方が良さそうだ)
只でさえ平家の件に首を突っ込んでいる最中だ。
これ以上の厄介ごとはご勘弁願いたい。
特に危害を加えてきそうな感触はないし、それに、この様子ではどう考えても尾路山さん自身が発見するのは時間の問題だろう。
二重尾行の可能性は否定し切れないが、そこまでされるのであれば、それこそそれは尾路山さん自身に片をつけてもらうしか無い。
「――た気がしたんですけど、気のせいです。学校が有るので、それでは」
祐一はそれ以上の説明を、諦めた。
まぁ、『モヒカン』って時点で、ほぼ間違いなく尾路山さんに見つかるのは時間の問題だろうが、色んな意味でがんばれ、モヒカン。
作品名:アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一 作家名:辻原貴之