アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一
練習は、五限目の始業五分前をもって、一旦終了した。
三々五々散っていく一年生の中、祐一達も施錠を済ませ、廊下へ出る。
祐一は先程ちらりと出た言葉が気になって、平家に声を掛けてみることにした。
「なぁ、平家。さっき言ってた『怖い思い』って、何か有ったのか?」
「あぁ、それ?」
平家に声を掛けたのに、反応したのは尾形の方だった。
尾形はどうやら、自分の知っている話には口出しせずにいられないタイプらしい。
「一年生はどうしても実力的に先輩たちに追いついてないでしょ?だから、今コーラス部の一年は午後九時まで『居残り練習』もしてるのよ。だけど、居残ると、帰りが遅くなって怖いじゃない。特にあずさちゃんは、今年の一年の中で一人だけ地元の子だから、途中で真っ先に一人になっちゃうのよね」
尾形がキュートと表現するに相応しいその顔を不機嫌そうに歪めながら、祐一の方へ振り返る。
「で、この何日間か、何か変な人に付けられている。………ような気がするらしいのよ!」
言いながら、ビシッと人差し指を立てて祐一に突きつける。
別に祐一がつけ回しているわけではないのだが、それだけ危機感を持っていることだけは良く分かった。
「ね?」
「……うん、まぁ、そんな所かな」
尾形の言葉を受けて、平家が困ったように控えめに頷く。
祐一の目には、その言葉に嘘や偽りの『色』はなく、本当に困っているのが『視て』取れた。
祐一は部活動など考えたことも無かったが、部活動をしている人間にとっては、帰宅事情というのも大きな問題らしい。
「フム……。まぁ、確かに夜中の女の子、しかも一人歩きは危険だな。…ご両親や家族に迎えに来てもらうことは?」
「朝は大丈夫だろうけど、夜はちょっと…。お父さんはあまり時間が決まってないお仕事だし、お母さんは今、弟の送り迎えもしてるの」
平家が頭を振って否定する。
しかし、そうなるといよいよもって難しくなる。
「なるほど、これは誰かが一肌脱ぐしか無いな」
「大体、夜九時も回れば、一人歩きじゃなくったって怖いもんよ。バスの定期を使う子ばかりじゃないから、駅まで皆で歩くじゃない。そうするとやっぱり、三十分くらい掛かるしね。基本的にその時間だと、普通の人は駅から帰ってくる方だから、女の子同士で歩いてても、後ろから誰か来ると結構怖いわよ」
尾形が不平を鳴らした。
「なるほど、そんなもんか。……誰か、一緒に帰ってくれる男子とかいないのか?」
祐一の問いに、再び尾形がビシッと指を突きつけた。
「あのね、高校入って何ヶ月だと思ってるのよ?外部生も多くて、しかも前期が始まって間もない上に、仮入部期間が終わったばかりなの。そんな環境で彼氏持ちなんか居る方がおかしいでしょ?」
「何で彼氏の話になるんだよ。別に彼氏に頼らなくてもいいだろ。同じ時間に終わるような部活の男子が何人かいれば、多少なりとも護衛になる」
尾形の言葉を受けて、祐一は視線を平田達の方へ向ける。
「……なるほど、一理あるな」
「藤井っち、賢いね」
池本と平田が、ポンと手を打つ。
祐一はそのまま続ける。
「池本は確か、『持ち上がり』だけど、電車通学だろ?帰り時間を少しずらして、尾形達の護衛につけばいい。都合の良い事に空手で全国大会に出場した腕っ節の持ち主だぞ?」
「空手部の一年でいいのなら、確かにウチも居残りしてるから、帰りの時間の都合は合わせられるな」
池本が頭の中で計算するように斜め上を見上げながら、頷く。
「で、片や平田健は地元っ子で、しかも全国大会の覇者だ。一人で寂しく、怖い思いをしながら帰る平家の護衛には、うってつけじゃないか」
「え、何で俺はフルネームで呼ぶのん、藤井っち…?」
「俺が平田の名前を『健(たける)』だと理解していることをたまにアピールしておかないと、色んな人が平田の下の名前を間違えるからだ。因みにケンと書いてタケルと読む!」
平田が疑問を口にしたので、祐一は胸を張って答えた。
「……なんか急に、『佐藤健の健だ!』って言ういつものリアクションをするのが恥ずかしくなってきたよ、藤井っち」
実はそれを狙っている。
が、本人には言うまい。
「………空手部の人たちと、一緒に帰るの?」
「しかも同じ一年同士なら、良い交流になるんじゃないか?考える余地は有ると思うが」
キョトンとした表情で祐一の提案に口を挟んだ尾形に、祐一は頷く。
「そうだな…。コーラス部の一年さえ良ければ、俺から他の一年にも声を掛けてみよう。駅から先はともかく、駅までは送れるだろうし。……どうする?」
池本が意義深い仕事を見つけた求道者のような表情で、尾形に確認した。
「そうね…。その方が皆も安心出来るかも」
尾形が、少し考えるように腕組みをして顎に手を当てる。
大人の真似をしているようにしか見えないのが『璧に瑕』だが。
「ただ、勝手に決めちゃうと問題が有るだろうから、顧問の先生と担任くらいには伝えておいた方がいいかも知れないな」
祐一は一応自分の提案をフォローすると、少し考えてから意見を修正した。
「……いや、もう一人、味方につけておけば安心出来る人がいたな」
「『フジさん』か!」
池本の納得したような表情を見て、祐一は頷く。
深夜帰宅に関する安全性は、学習を塾や予備校に頼るようになって久しい近年の日本の学習制度における重要な課題の一つでも有る。
人格者として知られる『フジさん』こと藤山教諭は、味方につけておけば、生徒自身が導き出したこの自治的な提案を喜んで受け容れて、協力してくれるだろう。
「平田は問題ないだろ?自転車に乗せて帰ってもいいだろうし、その方が何かと面倒もなさそうに思えるけど」
「俺は全く問題ないよ。……でも、そっか。先生を通さなきゃダメか」
平田は少し困ったように顎に手を当てる。
「何か有るのか?」
「あ、そっか。そうだよね」
祐一の問いに平田は答えなかったが、先に平家が納得したように小さく頷く。
「アタシはほら、大丈夫だよ。それに、平田くんに送ってもらうのは、何か皆に悪い気がするし。何て言うのかな。えっと、『本末転倒』っていう奴かな?」
「誰かに付けられてるような気がするっていうなら、お前が一人で帰る方が『本末転倒』だろ。何か起こってからじゃ平田の時みたいに……」
祐一はそこまで言ってから、『問題が有る』ことに気づいた。
仮にも平田は、先日集団暴行を受けた立場だ。
本来ならば報復等を考慮して『送られる』位が丁度良い立場の平田が、そんな時間まで部活動をしていることにも実は問題があるのだろうし、あまり叩かれると埃が出てしまう部分だろう。
「うん。まぁ、多分そういうこと。教師に話を通すとなると、いきなり難しくなる」
平田が視線を祐一に向けると、再び考え込む仕草を見せた。
「いっそ、二人纏めて、先生に送ってもらうっていうのは?由美ちゃんセンセは、車持ってるよ」
尾形が名案を思いついたように平田の腕に飛びついて行く。
祐一達のクラスの担任で有る大沢由美香は、現在女子バドミントン部の副顧問をしている。
責任上、同じ生徒とはいえ誰を優先するべきかは頭を悩ませるところだろう。
作品名:アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一 作家名:辻原貴之