続、吉良吉田殺人事件
「おーい、何か大きなものがかかったぞ!」
早朝の漁船の中、船長の斉藤が船の後方から仕掛けた底引き網を巻き揚げながら、周りの連中に声を掻けた。今朝も早くから、沖合漁に出ている漁船の一つだった。斉藤は、一瞬何か異様な肌寒さを感じた。これが魚で無いのは明らかだった。しかし、同時にどこか生き物の気配を感じたのは、長年の漁師としての経験からだった。
「お、おーい。ちょっと来てくれ...」
仲間と言っても乗船しているのは斉藤の他に二人の若者。まだ漁師としては駆け出しである。
船側を伝って、二人の若者が歩み寄って来た。斉藤は機械での巻き上げから、手動に変えて、少しずつ手繰り上げた。網の中に一瞬黒い塊が浮き上がり、それを見た二人は、腰を抜かしたように船底にのけぞった。
「ひ!人が!!し、死んでる!!」
「し、しかも、女だ!」
「......!?]
長く伸びた髪の長さからも、それが女性であることは明らかだった。しかし、その顔の様子も、そしてなぜこんなところで見つかったのかも分からなかった。
斉藤は急いで、地元警察に連絡を取った。彼らの船が岸に着いた頃、すでに海岸線には数台の警察とパトカーが駆けつけていた。小さな村での出来事なので、たちまち新聞やテレビでもニュースとなった。
警察の聞き込みが始まった。この辺りの旅館の数は限られているので、まずは、それらしき女性が止まった形跡が無いか、一つ一つ問いただされた。
その夜、京太郎と信子の二人は、下呂温泉からさらにローカル線で奥に入った、温泉リゾート”美輝の湯”で泊まった。ゆっくりと温泉につかり、食事を終えた二人は部屋に帰った。表では、浴衣姿の年配客達が、未だ勢いに乗って騒いでいる。信子はと言えば、もうすっかり疲れた様子で、布団に入ってすやすやと眠っている。
窓から見上げる月は、ほとんど満月に近く、透き通るような空気の中で前方に広がる山々の中空に輝いていた。この澄んだ空気と穏やかな水の流れを聞いているうちに、一体今までの自分の人生は何だったのかと思わずにはいられなかった。月は次第に天高く上り、まるで何かを京太郎の心に語りかけているようだった。
ふと枕元のテレビのスイッチを入れると、とある地元局のニュースが流れていた。吉良吉田、宮崎海岸で女性の水死体が上がった、とのこと。事故か、あるいは他殺の疑いもあるため、現在警察が捜査中とのことだった。
「へえ、宮崎海岸で...こんな時期に...」
京太郎は自分も何度か訪れたことのある、太平洋に臨む、穏やかな海辺の景色を思い浮かべていた。
翌朝、朝ぶろを浴びた京太郎は、朝食を済ませた後、信子と散歩に出かけた。宿から20分程下った所に”道の駅”があった。信子はそこで土地の野菜や味噌、そして手作りのパンなどを買っている。ふと、隣の建物を見ると、”温泉ステーシオン”と書いてある。
「おい、温泉ステーシオンって何だ?」
京太郎がそう言うと、
「ここから温泉を運んで、家に持って帰るのじゃないの。家で本当の温泉が入れるって訳。」
「家で、本当の温泉か....」
京太郎は感慨深げに頷いた。
山道を登りながら、ホテルに帰る途中で京太郎は、ある考えを思いついた。
「おい...」
「何。あなた?」
「...温泉屋をやろう!」
「温泉屋?!」
信子にはその意味がすぐにつかめなかった。
「そうだ、温泉屋をやろう。俺はたった今そう決めた。」
京太郎の胸は既に期待にときめき始めていた。
ホテルに戻ると、すでに送迎用のバスが待っていた。二人は急いで帰り支度を整え、チェックアウトを済ませた。慌ててバスに乗り込むと、もう幾人かの客たちが二人を待っていた。玄関口で、フロントの女性が見送りに来ていた。
「ありがとうございます。又、お越しください。」
公共の宿らしく、親切で親しみのある笑顔でそう言った。
「どうも、ありがとう。」
バスの窓越しに、京太郎たちも微笑んだ。
「あなた、温泉屋って言っても、どうやって食べていくの?」
車中、信子が京太郎に聞いた。
「だから、二人であちらこちらの温泉に行って、湯を分けてもらうのさ。それを持ち帰って、近所の人たちに配るのだよ。そう、介護の必要な人の所に持っていく。いっそ介護センターや老人ホームなども良いかも知れん。」
京太郎は少し興奮気味に言った。
「そんなことで食べていけるの?」
「大きな収入は無いさ。でも元手が要らない。軽トラでポリタンクを積んで来れば、ほらここに100リットル、50円って書いてある。ただのようなものさ。後は欲しい人に低料金で分けて上げればいい。いざとなったら、この地方に住んでしまえばいい。今朝の露天風呂で、土地の人が言っていた。過疎で住む人が居なくなった民家があるそうだ。それをただでもいいから借りてほしいんだとさ。ただとはいかないからひと月一万円くらいで借りて、そこから地元の野菜などをあちらこちらに届けるのはどうだ?ホームページ一つで、結構注文が来ると思うよ。そしたら俺たち町の家なんかに住まなくても、この空気の良い所でのんびりと暮らせるのだ。」
京太郎は自分で言っているうちに、次第に興奮してきた。
「お前もきっと気に入るよ。」
「私は、そんな来るまであちこち出かけるなんて嫌だわ。世間体もあるし、みっともない。あなた一人でやって下さい。それにスーパーやコンビニも無いなんて、第一不便だわ。」
「これは、絶対いける。俺にも運が付いてきた。もう会社の言いなりなんてならない。自分の人生は自分で決める。」
京太郎はいかにも満足気だった。
「.....」
信子は隣で無言のまま、外の景色を眺めていた。
自宅に着くと、京太郎は早速準備を始めた。まずはあちらこちらの中古自動車屋を訪れて、車を探した。始め小型の軽トラックと思って居たのが、手ごろな2トン車が見つかった。折りしの景気でわずか、50万円で手に入った。ポリタンクは50リッターと100リッターのものを買い、これも数万円で済んだ。後は中古のポンプに、それに自宅の家の前に、”奥三河温泉屋”という看板をつけ、閉めてわずか、100万円足らずで準備が整った。始め乗る気がしなかった信子も、京太郎があちらこちらを走るのを見かねて、ついに看板書きまで手伝うことになった。
「本当に、私はまだ嫌ですからね、こんなこと。だって近所の人になんて言ったら良いの。うちの主人温泉屋だなんて、とても言えないわ、恥ずかしくって。」
「お前もそのうち、よかったと思うようになる。みんなに感謝されるようになるよ。」
京太郎の思いは期待から確信に変わっていた。
「ホームページはまだだから、とりあえずエールアドレスでも付けておくか。」
そう言って、看板の下に自分のメールアドレスを書き込んだ。
「これでよし、っと。後は家の屋根に取り付ければいい。」
梯子を持ち出して、二階と一階の間の中央部分に、”奥三河温泉屋”と書いたその看板を取り付けた。
「おおい、しっかり持てー。」
下から支える信子に、京太郎は大声で声をかけた。
「まるで、どこか田舎の温泉宿みたい...」
近所から、一体何が始まるのかと、主婦や年寄りたちが集まった。
早朝の漁船の中、船長の斉藤が船の後方から仕掛けた底引き網を巻き揚げながら、周りの連中に声を掻けた。今朝も早くから、沖合漁に出ている漁船の一つだった。斉藤は、一瞬何か異様な肌寒さを感じた。これが魚で無いのは明らかだった。しかし、同時にどこか生き物の気配を感じたのは、長年の漁師としての経験からだった。
「お、おーい。ちょっと来てくれ...」
仲間と言っても乗船しているのは斉藤の他に二人の若者。まだ漁師としては駆け出しである。
船側を伝って、二人の若者が歩み寄って来た。斉藤は機械での巻き上げから、手動に変えて、少しずつ手繰り上げた。網の中に一瞬黒い塊が浮き上がり、それを見た二人は、腰を抜かしたように船底にのけぞった。
「ひ!人が!!し、死んでる!!」
「し、しかも、女だ!」
「......!?]
長く伸びた髪の長さからも、それが女性であることは明らかだった。しかし、その顔の様子も、そしてなぜこんなところで見つかったのかも分からなかった。
斉藤は急いで、地元警察に連絡を取った。彼らの船が岸に着いた頃、すでに海岸線には数台の警察とパトカーが駆けつけていた。小さな村での出来事なので、たちまち新聞やテレビでもニュースとなった。
警察の聞き込みが始まった。この辺りの旅館の数は限られているので、まずは、それらしき女性が止まった形跡が無いか、一つ一つ問いただされた。
その夜、京太郎と信子の二人は、下呂温泉からさらにローカル線で奥に入った、温泉リゾート”美輝の湯”で泊まった。ゆっくりと温泉につかり、食事を終えた二人は部屋に帰った。表では、浴衣姿の年配客達が、未だ勢いに乗って騒いでいる。信子はと言えば、もうすっかり疲れた様子で、布団に入ってすやすやと眠っている。
窓から見上げる月は、ほとんど満月に近く、透き通るような空気の中で前方に広がる山々の中空に輝いていた。この澄んだ空気と穏やかな水の流れを聞いているうちに、一体今までの自分の人生は何だったのかと思わずにはいられなかった。月は次第に天高く上り、まるで何かを京太郎の心に語りかけているようだった。
ふと枕元のテレビのスイッチを入れると、とある地元局のニュースが流れていた。吉良吉田、宮崎海岸で女性の水死体が上がった、とのこと。事故か、あるいは他殺の疑いもあるため、現在警察が捜査中とのことだった。
「へえ、宮崎海岸で...こんな時期に...」
京太郎は自分も何度か訪れたことのある、太平洋に臨む、穏やかな海辺の景色を思い浮かべていた。
翌朝、朝ぶろを浴びた京太郎は、朝食を済ませた後、信子と散歩に出かけた。宿から20分程下った所に”道の駅”があった。信子はそこで土地の野菜や味噌、そして手作りのパンなどを買っている。ふと、隣の建物を見ると、”温泉ステーシオン”と書いてある。
「おい、温泉ステーシオンって何だ?」
京太郎がそう言うと、
「ここから温泉を運んで、家に持って帰るのじゃないの。家で本当の温泉が入れるって訳。」
「家で、本当の温泉か....」
京太郎は感慨深げに頷いた。
山道を登りながら、ホテルに帰る途中で京太郎は、ある考えを思いついた。
「おい...」
「何。あなた?」
「...温泉屋をやろう!」
「温泉屋?!」
信子にはその意味がすぐにつかめなかった。
「そうだ、温泉屋をやろう。俺はたった今そう決めた。」
京太郎の胸は既に期待にときめき始めていた。
ホテルに戻ると、すでに送迎用のバスが待っていた。二人は急いで帰り支度を整え、チェックアウトを済ませた。慌ててバスに乗り込むと、もう幾人かの客たちが二人を待っていた。玄関口で、フロントの女性が見送りに来ていた。
「ありがとうございます。又、お越しください。」
公共の宿らしく、親切で親しみのある笑顔でそう言った。
「どうも、ありがとう。」
バスの窓越しに、京太郎たちも微笑んだ。
「あなた、温泉屋って言っても、どうやって食べていくの?」
車中、信子が京太郎に聞いた。
「だから、二人であちらこちらの温泉に行って、湯を分けてもらうのさ。それを持ち帰って、近所の人たちに配るのだよ。そう、介護の必要な人の所に持っていく。いっそ介護センターや老人ホームなども良いかも知れん。」
京太郎は少し興奮気味に言った。
「そんなことで食べていけるの?」
「大きな収入は無いさ。でも元手が要らない。軽トラでポリタンクを積んで来れば、ほらここに100リットル、50円って書いてある。ただのようなものさ。後は欲しい人に低料金で分けて上げればいい。いざとなったら、この地方に住んでしまえばいい。今朝の露天風呂で、土地の人が言っていた。過疎で住む人が居なくなった民家があるそうだ。それをただでもいいから借りてほしいんだとさ。ただとはいかないからひと月一万円くらいで借りて、そこから地元の野菜などをあちらこちらに届けるのはどうだ?ホームページ一つで、結構注文が来ると思うよ。そしたら俺たち町の家なんかに住まなくても、この空気の良い所でのんびりと暮らせるのだ。」
京太郎は自分で言っているうちに、次第に興奮してきた。
「お前もきっと気に入るよ。」
「私は、そんな来るまであちこち出かけるなんて嫌だわ。世間体もあるし、みっともない。あなた一人でやって下さい。それにスーパーやコンビニも無いなんて、第一不便だわ。」
「これは、絶対いける。俺にも運が付いてきた。もう会社の言いなりなんてならない。自分の人生は自分で決める。」
京太郎はいかにも満足気だった。
「.....」
信子は隣で無言のまま、外の景色を眺めていた。
自宅に着くと、京太郎は早速準備を始めた。まずはあちらこちらの中古自動車屋を訪れて、車を探した。始め小型の軽トラックと思って居たのが、手ごろな2トン車が見つかった。折りしの景気でわずか、50万円で手に入った。ポリタンクは50リッターと100リッターのものを買い、これも数万円で済んだ。後は中古のポンプに、それに自宅の家の前に、”奥三河温泉屋”という看板をつけ、閉めてわずか、100万円足らずで準備が整った。始め乗る気がしなかった信子も、京太郎があちらこちらを走るのを見かねて、ついに看板書きまで手伝うことになった。
「本当に、私はまだ嫌ですからね、こんなこと。だって近所の人になんて言ったら良いの。うちの主人温泉屋だなんて、とても言えないわ、恥ずかしくって。」
「お前もそのうち、よかったと思うようになる。みんなに感謝されるようになるよ。」
京太郎の思いは期待から確信に変わっていた。
「ホームページはまだだから、とりあえずエールアドレスでも付けておくか。」
そう言って、看板の下に自分のメールアドレスを書き込んだ。
「これでよし、っと。後は家の屋根に取り付ければいい。」
梯子を持ち出して、二階と一階の間の中央部分に、”奥三河温泉屋”と書いたその看板を取り付けた。
「おおい、しっかり持てー。」
下から支える信子に、京太郎は大声で声をかけた。
「まるで、どこか田舎の温泉宿みたい...」
近所から、一体何が始まるのかと、主婦や年寄りたちが集まった。
作品名:続、吉良吉田殺人事件 作家名:Yo Kimura