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真冬の幻 第3章『ひとりぼっちのビリーバー』

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ひとりぼっちのビリーバー



 いつから眠ってしまっていたのだろうか。私は朦朧とした意識のまま窓に視線を移す。外はすっかり暗くなっている。地面を叩きつける雨の音も聞こえる。なかなか意識が鮮明にならない。私は両頬を思いきり叩いた。すると途端に現実に帰る。その瞬間私はとんでもない失態を犯してしまったことに気付いた。
 私はベッドから飛び起きて時計を見る。時計は既に午後八時を指していた。
 私は部屋の扉を力任せに開いて廊下に躍り出る。そして物凄い勢いであの部屋へと向かう。
 私は扉に耳を付ける。しかし彼女の呼吸音は聞こえてこない。だから私はノックもせずに扉を開けた。中には、誰もいなかった。殺風景な部屋には人の気配が全くしない。私は言葉を失った。
 私は放心状態で携帯電話を取りだす。そして震える指である番号に電話を掛けた。電話の主はすぐに出た。
 「ごめん、部屋に、部屋に、いないの……」
 私はまるで子供のように要領の得ない言葉を発する。しかし電話の主はそれでも私が何を言いたいのか分かったらしく、私を落ちつけるように言った。
 「落ちついて。いないからってまだそうと決まった訳じゃない。今からあたしたちは彼女を探すから、あなたはそこで待っていて。いい? 決して外に出ては駄目よ」
 私は力なく「分かった……」とだけ言って電話を切った。私はもぬけの殻の部屋を見つめたまま立ちすくむ。不意にこれまでの事件の概要が頭に去来した。事件は全て夜の八時から十時の間に起こっている。その時間彼女はいつも家にいなかった。秘密の特訓をしているのだと、父は言っていた。だが、今はこんな状態だからそういった行動は自粛するように省からも通達されている。にも関わらず、二人はなぜ今日も特訓に行ってしまったのだろうか。
 二人が何をやって来たか私は知らない。何も知らされてこなかったからだ。別に何をやっていても構わない。だけどそれが、誰かに迷惑をかけるためのものだとしたら……。そう考えると、私はいてもたってもいられなくなった。あの子は家から出るなと言った。探すのは自分たちだけで充分だと言った。その言葉の真意は分かる。あの子はきっと、私に見せたくないのだ。そう。彼女は確信している。あの人が、今、何をやっているのかを……。
 私は全速力で部屋に駆け込み、急いでクローゼットからコートを取り出すと、誰にも声をかけずに家を飛び出した。
 外は雨が更に強くなっていた。だが傘などさしている余裕はない。私が風邪を引こうが、こんな状況では瑣末なことだ。だから私は何も持たずにこの雨の中に飛び込んで行った。
 季節外れのまるでスコールのような雨のせいで呼吸がままならない。でも止まる訳にはいかない。私が走っているのは、彼女の無事を確認するために他ならない。彼女が風邪を引いては大変だ。だから、だから私は止まる訳にはいかない……。
 そうだ、それだけのためなんだ。そうでなくちゃならない。だから私は、いつまでも降り続ける雨の中を、ただ必死に走り続けた。



 あたしは土砂降りの街を眺める。通りには会社帰りの人々が溢れている。それぞれがこの雨を恨めしそうに見ながら家路を急いでいる。ここは夜中にただそこを歩いているだけで人が殺されるような街だというのに、多くの人は変わらずに日常生活を営んでいる。警察は犯人が捕まるまでは深夜の外出を控えるように言っているが、会社員たちはそれを律儀に守れるほど暇ではないようだ。それでも一週間前に比べて随分と人の数は減ったような気もするが。
 ふと今電話したばかりのあの子のことを思う。あの子はちゃんと家で我々の報告を待っているだろうか。気が気じゃなくて、家を飛び出したりしていないだろうか。その可能性がないとは言い切れない。だから我々は早くあいつを探し出さなければならない。あの子の目に曝すことは決して許されない。
 彼女はまだ信じている。いくら大嫌いな姉だろうと、たった一人の姉妹には違いない。いくら嫌いと言い張っても、心の底から嫌うことなどできる訳がない。だからあたしはあいつが許せない。初めて会った時からずっと嫌いだったが、今はその何倍も嫌いになった。理由は一つだ。あいつが、あの子の希望を裏切ったからだ。
 もうすでに何十人という人間があいつを捜索している。だから見つかるのはもう時間の問題だ。現場を抑えられたらもうあの酷い父親とて言い逃れができるような状態ではなくなる。そうすれば省はようやくやつらを裁くことができるはずだ。
 現在の被害者は二人。これ以上罪を重ねさせることはあの子の心をズタズタに引き裂くことと同じことだ。やつを裁きこれ以上犯罪を続けさせないことが、あの子のためになるのと同時に、我々魔術師のためでもあるのだ。魔術師の面汚しを排除しなければならない。なぜならそれは我々魔術師の威信にも関わることだからだ。
 気付くとあたしは観幌川の近くまで来ていた。ここは最初の犠牲者が発見されたところでもある。二件目はここから二百メートルほど離れた路地裏で起こった。流石に同じ場所で犯行に及ぶことはないにせよ、犯人の行動範囲を考えれば、この場所が見当違いということはないだろうとも思えた。
 それは唐突に起こった。雨に紛れて、人の声が私の耳に届いた。それは話声でも、楽しそうに笑っている声でもない。それは叫び声だった。あたしは走り出す。声の主の方へ。堤防の真上まで来る。川はすっかり増水し、そこに来た者を簡単に溺れさせてしまうほどの水流と水量があった。雨の音と川の音で辺りはすっかり溢れていたが、その中でもその声ははっきりと私の耳に届いていた。
 だが不意に声が止んだ。なぜ止んだのか? 一瞬その疑問が浮かんだ。しかしすぐにそれが愚問であることが分かった。人の叫び声が聞こえなくなることの理由など、考えるまでもないじゃないか。
 あたしは視線を遥か前方に向ける。川の堤防の上に人影がある。雨に濡れるはずなのに傘もささずに佇む人影。あの人が悲鳴を上げたのか? いや、それは違う。悲鳴を上げたのは、
 ――その人影の下で死んでいる人間だった。



 姉の帰りが遅い。もう八時過ぎだというのに連絡の一本もよこしてこない。私はテーブルに広げられている料理を見て溜息をついた。せっかく無理して晩御飯を作ったというのに、肝心の姉がいなくては話にならないじゃないか。味の批評をされるは怖いが、折角つくったのだから早く食べて感想を聞かせてほしかった。
 私はお手製の晩御飯を目の前にして読書を始めた。匂いが鼻に届いて食欲を煽られるが、それに負けないようにただひたすら活字に向かった。
 本の中の主人公が何かを食べる度に私のお腹が鳴る。我ながら卑しいと思ったけれど生理現象を止めることは中々できないものだ。
流石にそろそろ辛い。そう思った時だった。電話が鳴った。相手はもう一人しか思いつかない。電話の主はやはり姉だった。
 「ごめんねー、仕事が長引いちゃってね。これから帰るけど、ご飯は先に食べててもらってもいいよ」
 「折角待ってたんだからもうちょっと待つよ。なんだか雑音が凄いけど、今どの辺りにいるの?」
 電話からは雨の音に混じって、もう一つ大きなざーという音が聞こえてきていた。