香るはチョココーヒー
することもないので、静かな部屋になってしまった。あ。静かではない。セミの鳴き声と自販機の稼働音が不協和音を奏でている。耳触りだ。
ううむ。呻って顔を上げた。身体に重石が乗っているかのようで、動かしづらい。だけれどもじっとしていてもぼんやりするだけなので、それはそれでつまらない。
ふと、先生の置いて言った本が目に入った。
そうだ。暇つぶしに読ましてもらおう。栞は動かさないで、冒頭部分だけ目で追う。
現代文学だ。どうやら学生物である。
しかし、文章を読むけれど、内容を咀嚼するような元気は無いらしい。イメージが湧いてこない。
決して文学が悪いわけではない。頭の中がとけそうなだけである。あと頭が悪いからというわけではない。たぶん。
ああ。だるい。
私は目を閉じてしまった。そうしたら、意識が落ちていく感覚がして、そのまま眠ってしまった。
「おい、起きろ」
声が聞こえてきた。ついでにあの不協和音がする。だけれども目の前は真っ暗で、閉じているのだということを認識できるぐらいに意識はある。
まだ目を開ける気にはならない。開けたくない。
ただグラグラと動いている。地震なのだろうか。
「起きろと言っている」
また、グラグラ。何なのだ。今、とても良い気持ちだというのに。
ゆっくりと目を開ける。
薄い膜がかかったような視界。
それが嫌で数回瞬きを繰り返せば、白いカーテンが飛び込んできた。
カーテン?
「起きたか?」
カーテンを辿っていくと、先生の顔が近くにみてとれた。覗きこまれていた。クリアになった視界には、強烈な現実だ。カーテンは白衣だった。しかしここまで近いのは初めてだった。
驚いて、飛びあがれば。危うく先生に頭突きをかませそうになった。反射神経が良いのか、避けてくれたのは幸いだ。
「うわわ、」
「落ち着け。別にイヤラシイことはしていない」
「はぁ? どういうことですか。イヤラシイって」
「……間違いだ。後ろめたいことはしていない」
「今の間はなんですか。別に良いです。寝てしまっていた私が悪いんですから」
飛び起きて、理解したことは状況が変わっていないということ。至極、暑い。寝ていたから尚更かもしれない。
次いで腕時計で時間を確認したら、あれから大体三十分ぐらい経っているということ。先生の本を読み始めて、5分ぐらいは意識があったとしても、約二十五分は寝ていた計算になる。
辺りを見回せば、特に変わったところもない。自分の服装も乱れていない。髪の毛の乱れは仕方ない。寝ていたのだから。
先生の言葉を信じなかったわけではないが、念のための確認である。
「それで、先生は何を買ってきたんですか?」
「ああ、そうだ。溶けてしまうので、すぐに食べよう」
ほら、と渡されたのはパピコの半分だった。パピコというのは大手メーカーのチューブ型アイスクリームだ。
チョココーヒー味以外は期間限定販売という。
渡されたものは茶色をしていたので、チョココーヒー味で間違いないだろう。
でも、半分って。
伺い見れば、自信満々な顔で説明し始めた。
「資金繰りは上手くやらなくてはいけない。この後、昼食を摂るのだからな。二つで一つのコレが一番効率良かった。折角、二人でいるのに一人で食べていたらおかしいだろう」
彼の意味不明な言葉を除去すると、このような言い分になる。もっと長く何だかんだ言っていたのだが、私が理解できたのはこれだけだった。
間違っても思いやりではないようだ。
パピコを掴んでみると、グニュッとした感触が伝わってきた。思いの外、溶けている。でも完全に溶けているわけではない。この暑さの中で買ってきて、私を起こしていた時間はどれくらいだったのだろうか。
だから素直に礼を言って食べる。買ってきてもらって文句を言うはずは無い。言える立場ではない。
「コンビニまで行って、買ったのはこれだけですか」
「無論」
「ご飯とか、買えば良かったじゃないですか」
「ひゃくめおにくんと学食ランチするのに、どうして買わなきゃならん。僕が食べたいのは、学食の……うん。今日は、ところてんだな。学食のところてんだ」
学食に重きを置いているのか、私を優先してくれているのか全く分からない。
「いや。私だって別に先生だけが友達というわけではないですよ?」
「照れることは無い。しかし僕だって君だけが友達というわけじゃないぞ。でも、今日はそういう雰囲気だったような気がするのだが。気のせいか」
「わかりません。とりあえず、パピコご馳走様です。まさか、半額分請求しようとかないですよね」
「そこまでケチじゃない」
強く吸えば、一気にチョココーヒー味が口に広がり、チューブからは存在が消えた。食べきりサイズというのだろうか、ちょうど良い量だった。
先生は終ってからしばらく空になったチューブを齧っていたが、本を取ろうとした際に邪魔になったのか、あっさりと休憩室の入り口付近に設置してあったゴミ箱に投げ入れた。
そうだ。本を少し読ませてもらっていたのだった。
「読んだのか?」
「冒頭だけ」
「この本のタイトル何だかわかるか?」
「初めの項に書いてありましたね。覚えてないですけど」
「君が暑さに弱いことが良くわかった。この本のタイトルは『氷菓』だ」
「ひょうか?」
先生が私の口元を指差した。
「アイスクリームだ」
なるほど。「氷菓」か。
二限で会った時からその小説を読んでいた。
つまり先生は朝からアイスクリームの気分だったのだと、理解した。汗をかいていないからといって、暑くないわけではなかったのだ。
「厳密にはシャーベットの方かもしれないな。これは」
酸素を取り込めば、口腔にチョココーヒーが香った。
「舌の上がずっとチョココーヒー味ですね」
「そうだな。チョコもコーヒーも嫌いじゃない」
同じ味が舌に残っているということは、先生とお揃いだ。変な感じ。
「ああ。ひゃくめおにくんとお揃いだな」
実に楽しそうに笑った。
冷たいアイスを食べたのだから、一時的に温度は下がるはずだ。
それなのに、涼しくならなかった。
私はどうしてしまったのだろう。
暑くて死にそうだ。
作品名:香るはチョココーヒー 作家名:楡原ぱんた