香るはチョココーヒー
――暑い。
今日はいつにも増して暑い。家でじっとしていても歩いていても、何をしていても暑い。出来ることならば、四肢を一切動かしたくない。
大学校舎では冷房機器が充実しているが、それは科学技術部棟の精密機械が所在している部屋が大部分である。
人文学部棟には冷房機器はほとんどない。全くないわけではないが、こちらは旧校舎と新校舎とがあり、新校舎の方には付随しているが旧校舎には無い。
私が受講している教室は専ら旧校舎であり、夏場は絶望的である。日陰側で窓を開ければ幾分かはマシ。その程度だ。
暑いというのは何も気候的な原因だけではない。
隣の男も原因だ。こちらを一切見ず、活字を目で追っている。文庫本のようで、何かしらの小説だと思われる。大きさ的には小さいが、厚みがあった。参考書ではないだろう。熱心に読んでいた。けれど、会話が成り立つので完全に文学の世界に入っている、というわけでもなさそうだ。
白衣を着ていても、本人は涼しげだった。
こちらとして長袖は見ているだけでも暑い。視覚的にも温度が上がった気がするのだ。
駄目で元々。彼に見ているだけでも暑いので、白衣を脱いでくれないかと訴えてみた。
「いついかなる時も身を守るものとして着用している。この白衣は例外にもれない。これは火に耐性のある綿素材だ。通気性も良い。僕は暑いと思っていないので、脱ぐ理由にはならない。ちなみにこの下に着用しているのは、半袖のカッターシャツだ」
今日の服装はいつもと大体同じだと思っていた。
しかし、流石に長袖なものは白衣だけだったようだ。
カッターシャツの色は桜色。スキニージーンズは鈴色だ。これまたピンクに灰色なんて言ったら訂正されてしまったわけだが。
それにしてもジーンズは通気性が良くない上に、暑いのではないだろうか。
「そういえば、汗かいてないですね」
「暑くないからな」
「何か私だけ南国にいるような気分です」
「頭の中は楽園だろうに」
「先生に言われたくないですよ」
「僕の頭の中は人類、誰もが羨む理想郷だからな」
「想像以上にひどい頭の中ですね」
「今日はまたご立腹だな。いつも怒っているけれど」
「暑いんです。暑くてとけます」
私の服装はというと、黄色の半袖に水色のショートパンツ。生足は避けたいので、黒のレギンスを穿いている。先生に言わせれば黄色ではなく黄檗色で、水色ではなく空色らしい。黒は「暗黒色でしょう」とうんざりして言えば「残念だが、漆黒だ」と返された。どう違うのか今は問いただす気になれなかった。
「白は光を反射するが紫外線を通す。黒はその逆だ。それで上半身も気を使えれば、もっと良いと思うが」
「日焼け止めをこれでもかって程塗りましたよ」
焼けやすい肌質で、日焼け止めを塗らなければすぐに真っ赤になってしまうのだ。加えて痛さも半端ではない。
彼を見ても焼けているように見えない。引きこもりが久々に外出をしたと言われても、おかしくないぐらいに白い。全体的な色合いも白っぽいので、目に眩しい。
眩しさに思わず目を細めれば、顔を上げた先生は表情を歪ませた。
「重症だな。水分は?」
「摂っています」
有名メーカーのラベルが貼ってあるボトルを鞄から取って、見せた。
今朝購入したものだが、もう残り少ない。五百ミリリットルの定番サイズだった。
「ただのミネラルウォーターでは駄目だぞ。塩分が入っているのが理想的だ」
「それよりもアイス食べたいです」
「……重症だが、元気そうだな。まあ、良い。ひゃくめおにくんの今後の授業は?」
「百目鬼ですってば。えーっと、今日は一限と二限に、四限で終わりです」
予定を思い出すのも一苦労だった。暑くて脳みそもとけきってしまいそうだ。ただでさえ頭がよろしくないのに。
「今の時間が、二限が終わってから十分後だ。この旧校舎の休憩室は風通しが良いが、煙草のにおいがこびりついて少々不快だ。しかし、学食が空くまで一時間は待たなくてはいけない。購買にも人が溢れているだろうからな」
一限は別だったのだが、二限が被ったのだ。そうして二人で昼時の混雑を避けて、旧校舎の二階にある休憩室というあまり人の来ない穴場に逃げ込んだのだ。
先生はこのあとの三限目には授業を入れていない。
ゼミがその時間にどうしてもと言われれば、入れなくは無いのだろうが、お昼の食事はゆっくりと摂りたいという。
しかし、先生がお昼にきちんとした食事をしているところを見ていない。
食べているのはプリン、杏仁豆腐、パンナコッタ、ところてんなどだ。定番の生姜焼き定食やカレーライスといったメニューを口にしていることは無い。
春先から夏まで昼時はほとんど一緒だったのに。
先日の「唐揚げ三秒ルール事件」については、夕飯だったということは補足しておく。夕飯は思う存分と肉食獣のように食べているのに、不思議だ。
「せめて、冷房機器がついている場所に行きませんか」
「この時間の冷房機器がついている場所というと、科技部の実験関係と情報処理の教室に、新校舎のパソコン室ぐらいか。どうする?」
「どちらもここからじゃ遠いですね」
「遠いな」
パイプ椅子にだらしなく座っていた私は、とうとう古い会議用デスクに突っ伏した。
それはこの休憩室に備えてあるもので、パイプ椅子と会議用デスク以外には自動販売機がある。私には水があるので、現在必要ないものであり、室内の温度を上げている原因の一つでもある。稼働音がうるさい。外で鳴いているミンミンゼミよりはうるさくないけれど。
少し前までは喫煙所に指定されていたけれども、現在は全面禁煙とされている。
先生が言っていたように煙草の、ヤニのにおいが残っている。
デスクにつけた腕がしっとりしているのがわかる。デスクは濡れていなかったから、私の腕が汗をかいていたのだろう。その上、若干期待していた分だけ、ガッカリせざるをえない。まあ経験上、期待するだけ無駄ということもキッチリわかっていた。
「ぬるい」
冷たいわけがないことは、わかっていたのだ。本当に。
「なあ。コンビニと購買とではどちらが近い?」
「そうですねぇ。距離的には購買でしょうけど、時間的には同じぐらいじゃないですか? 購買の混み具合にもよりますけど」
「科学技術部の購買だったら?」
「断然、コンビニです」
「そうか。じゃあ、少し待っていてくれ」
パタンと音を立てて、文庫本をデスクに置き立ち上がった。私は目だけで彼をぼんやりと見ていた。ただでさえ身長が高いのに、突っ伏したまま見ると大きな熊のようにも見える。細長いのに、不思議だ。
何をするのだろうか。そんな顔をしていたと思う。
「大丈夫。少し出掛けて、すぐに戻ってくるさ」
話の流れから考えるに、コンビニに行くのだろうけれど、何を買ってくるのか想像がつかない。オニギリだろうか。例によってプリンの類だろうか。
私がうんともすんとも答えなかったのに、彼は颯爽と出て行ってしまった。
一人になってしまった。
先生と会話していたから、まだ暑さもなんとか紛らわすことが出来ていたというのに由々しき事態である。
作品名:香るはチョココーヒー 作家名:楡原ぱんた