和尚さんの法話 『衆生仏を憶念すれば仏も亦衆生を憶念し給う』
「衆生仏を憶念すれば、仏も亦衆生を憶念し給う」
こういうお言葉がございますが、この衆生というのは、
本来我々人間ですね。
私たちが、この憶念ということを常に忘れないと。
いつもその仏様のことを思う。仏様とかお地蔵様とか
観音様でもいいわけですよ。
仏も亦衆生を憶念すると。
私たちが、如来様のことをいつも忘れない。
つまり信仰ですね。
信心、信仰心というものは何時も忘れない。
忘れることもありますけれども、なんといいますか、
親が子を思う気持ちを逆にね、子供はなかなか親が子
供を思うようには思いませんのでね。
親というのは何時も子供を、四六時中とは言いません
が子供のことをね、なにかしているときは忘れていま
すけども、ちゃんと根に座ってますわね。
何かあったらぱっと子供のことが頭に浮かんでくる。
和尚さんの子供の頃の小学校の校長さんの話しを以前
にもお話しをしたと思いますが、その校長さんの子供
さんが、和尚さんの寺の裏山から落ちたんです。
それがちょうど地蔵堂の横だったんです。
近所の人が見つけて、この子は好調さんの子供だとい
うので学校へ走っていって、校長さん、お子さんが寺
の裏山から落ちましたと。
気絶してますと、知らせにいったんです。
其の時、校長は授業をしていたそうですが、その知ら
せを聞いてすぐに、裸足で窓から飛び出して寺へ走っ
ていったそうです。
親というのはそういうものでしょ。例外はありますが。
四六時中いつも覚えているわけじゃないけど、子供に
対する愛情というものはでんと腹に座ってるから、何
かあったらぱっと行動しますね。
そういう親が子供を忘れないような気持ちというのを
逆に、我々が仏様のことを忘れないと、こうしたもの
が信心です。
衆生仏を憶念すればというのは、そういうよう
に親が子供のことを憶念してるんですよ。
子供に対する愛情を憶念という言葉に置いても
いいんです。
仏様も、あの者は何時も私のことを思っている
なと。
仏様は超能力でちゃんと知ってますからね。
阿弥陀様であろうが観音様であろうが、あの者
はちゃんと信心してるな、いつも家から拝んで
くれてるなと、よく知ってます。
我々が仏様のことを忘れないように、仏様も我
々を忘れないでいつも見てくれているのです。
つまり守ってくれているのです。
こういう意味の言葉です。
これは經典にある言葉ですから仏という言葉が
出てきますけれども、神さんでも一緒ですよね。
お稲荷さんを一所懸命に信仰している人はお稲
荷さんがちゃんと守ってくれている。
それが信心ですね。
和尚さんもいろいろ体験があるそうで、ああや
っぱり守ってくれているんだなというふうな、
ひしひしと感じると。
ずっと以前に或るお客さんがみえて、和尚さん
は信仰の話しをしますと、その人も私もこうい
う体験をしましたと、体験を語ることがある。
その話しの一つですが、その人はお稲荷さんを
信仰していたんですね。
終戦後間もないころ、ジープと衝突をしたそう
です。
ところが軽く済んだそうで、ちょっと青あざが
出来たくらいでね。
その人が行きつけているお稲荷さんの先生がい
らっしゃるそうで、そこのお稲荷さんを信仰し
てるんですね。
そしてジープに当たって、だいぶ日がたってか
ら何かの相談事があってそこへお伺いに行った
んですね。
その行者さんはお稲荷さんが乗り移って、そし
てお告げをするんですね。
テレビでもそういう人が出てきますね。
そしてお告げがあって、お前は日頃から私を信
仰してくれているからよく知ってるぞと。
いつも私はお前を守ってやってるんだと。
ところが、お前は気がつかん。
ひとつ注意をしておくが、お前はこの間ジープ
に当たっただろ。
このジープに当たったことはその先生には言っ
ていないんですね。
あざが出来た程度だったから忘れていた。
大きな事だったら覚えていますがね。
その行者さんには言ってないんですね。
だからこれは神さんが言うてるとしかとりようが
ないわけです。
行者さんが知らないことを、客観的な事実と合っ
てることを言うという場合は、その行者さんは確
かなものですね。
知ってることを言うのだったら誰でも言えますか
ら。
知ってるはずがないのに言う、というのは超能力
ですね。
人によっていろいろありますけどね、その超能力
というのは。
その場合は、お稲荷さんがその人に乗り移って、
ああだこうだとその行者さんの口を借りて言うわ
けです。
恐山もそうじゃないですかね。
そのジープに当たったが、なんとかしてそれを避
けてやろうとして、随分苦労をしたと言うのです。
ところがお前はそれを気が付かん。
だけども当たったけれども軽く済んだだろうと。
こう言うたそうですよ。大難は少難ですね。
よく思い出せ。お前はジープに当たる二三日前か
ら家を出るのが嫌であっただろう。
そう言われて考えてみると、なるほど当たったそ
の二三日前から兎に角、家から外へ出るのが億劫
だったというのです。
病気でもなんでもないのにお風呂へ行くのも嫌、
買い物に行くのも嫌、なんとなく外へ出るのが嫌
だったというのです。
それは危ないぞ、危険だぞ気を付けよというて私
が知らせていたんだと。
ところがお前が気がつかんから当たったけど、然
しながら軽く済んだだろう。これからもあること
だからよく気を付けよと。
そういうふうに信仰をしてましたら、なにかしら
という気持ちが起こるんですよ。それが知らせな
んです。
所謂虫が知らせるとか第六感とかよく世間は言う
けど、それは知らせてるんです。
そのときいいことが思ってくるときがそれはいい
んですけど、いい方の事はいいんですけど悪い方
のことは気をつけないといけないわけです、知ら
せはね。
どうも今日は外へ出たくないなと思ったらよくよ
く気を付けないといけませんね。
また或る人は、その人は府庁へ勤めている人で、
或る朝出勤しようというとき急に行くのが嫌に
なった。
ところが急にそういう気持ちになったものです
から休暇届けはしてないわけです。前から嫌に
なっていたら、例えば病気で気分が悪いとか、
欠席届を出せますけれども、急にそういう気に
なってきたのですからね。
また無断でやすんだらいかんというので嫌嫌出
勤したんです。
そしてバスだったか電車だったか兎に角一番最
後に乗ったそうです。
手すりを持ってステップへ足をかけて中へ入ろ
うとすると中の人に押し出されてしまったんで
す。
その反動で道路へひっくり返ってしまった。
そこへトラックが来て倒れたときに髪の毛が散
らばっていたその髪がひかれたというのです。
頭もなにも怪我はしなかったけど髪の上をタイ
ヤが通ったというのです。
それが危ないことだったわけですが、無信心の
人だったら怪我をしていたかもしれませんね。
だからこれも外へ出るのが嫌だったけど、仕方
がないから行く。
それでも神仏は大したことが無いように一所懸
命に守ってくれたんでしょうね。
その人も信仰している人だったんです。
こういうお言葉がございますが、この衆生というのは、
本来我々人間ですね。
私たちが、この憶念ということを常に忘れないと。
いつもその仏様のことを思う。仏様とかお地蔵様とか
観音様でもいいわけですよ。
仏も亦衆生を憶念すると。
私たちが、如来様のことをいつも忘れない。
つまり信仰ですね。
信心、信仰心というものは何時も忘れない。
忘れることもありますけれども、なんといいますか、
親が子を思う気持ちを逆にね、子供はなかなか親が子
供を思うようには思いませんのでね。
親というのは何時も子供を、四六時中とは言いません
が子供のことをね、なにかしているときは忘れていま
すけども、ちゃんと根に座ってますわね。
何かあったらぱっと子供のことが頭に浮かんでくる。
和尚さんの子供の頃の小学校の校長さんの話しを以前
にもお話しをしたと思いますが、その校長さんの子供
さんが、和尚さんの寺の裏山から落ちたんです。
それがちょうど地蔵堂の横だったんです。
近所の人が見つけて、この子は好調さんの子供だとい
うので学校へ走っていって、校長さん、お子さんが寺
の裏山から落ちましたと。
気絶してますと、知らせにいったんです。
其の時、校長は授業をしていたそうですが、その知ら
せを聞いてすぐに、裸足で窓から飛び出して寺へ走っ
ていったそうです。
親というのはそういうものでしょ。例外はありますが。
四六時中いつも覚えているわけじゃないけど、子供に
対する愛情というものはでんと腹に座ってるから、何
かあったらぱっと行動しますね。
そういう親が子供を忘れないような気持ちというのを
逆に、我々が仏様のことを忘れないと、こうしたもの
が信心です。
衆生仏を憶念すればというのは、そういうよう
に親が子供のことを憶念してるんですよ。
子供に対する愛情を憶念という言葉に置いても
いいんです。
仏様も、あの者は何時も私のことを思っている
なと。
仏様は超能力でちゃんと知ってますからね。
阿弥陀様であろうが観音様であろうが、あの者
はちゃんと信心してるな、いつも家から拝んで
くれてるなと、よく知ってます。
我々が仏様のことを忘れないように、仏様も我
々を忘れないでいつも見てくれているのです。
つまり守ってくれているのです。
こういう意味の言葉です。
これは經典にある言葉ですから仏という言葉が
出てきますけれども、神さんでも一緒ですよね。
お稲荷さんを一所懸命に信仰している人はお稲
荷さんがちゃんと守ってくれている。
それが信心ですね。
和尚さんもいろいろ体験があるそうで、ああや
っぱり守ってくれているんだなというふうな、
ひしひしと感じると。
ずっと以前に或るお客さんがみえて、和尚さん
は信仰の話しをしますと、その人も私もこうい
う体験をしましたと、体験を語ることがある。
その話しの一つですが、その人はお稲荷さんを
信仰していたんですね。
終戦後間もないころ、ジープと衝突をしたそう
です。
ところが軽く済んだそうで、ちょっと青あざが
出来たくらいでね。
その人が行きつけているお稲荷さんの先生がい
らっしゃるそうで、そこのお稲荷さんを信仰し
てるんですね。
そしてジープに当たって、だいぶ日がたってか
ら何かの相談事があってそこへお伺いに行った
んですね。
その行者さんはお稲荷さんが乗り移って、そし
てお告げをするんですね。
テレビでもそういう人が出てきますね。
そしてお告げがあって、お前は日頃から私を信
仰してくれているからよく知ってるぞと。
いつも私はお前を守ってやってるんだと。
ところが、お前は気がつかん。
ひとつ注意をしておくが、お前はこの間ジープ
に当たっただろ。
このジープに当たったことはその先生には言っ
ていないんですね。
あざが出来た程度だったから忘れていた。
大きな事だったら覚えていますがね。
その行者さんには言ってないんですね。
だからこれは神さんが言うてるとしかとりようが
ないわけです。
行者さんが知らないことを、客観的な事実と合っ
てることを言うという場合は、その行者さんは確
かなものですね。
知ってることを言うのだったら誰でも言えますか
ら。
知ってるはずがないのに言う、というのは超能力
ですね。
人によっていろいろありますけどね、その超能力
というのは。
その場合は、お稲荷さんがその人に乗り移って、
ああだこうだとその行者さんの口を借りて言うわ
けです。
恐山もそうじゃないですかね。
そのジープに当たったが、なんとかしてそれを避
けてやろうとして、随分苦労をしたと言うのです。
ところがお前はそれを気が付かん。
だけども当たったけれども軽く済んだだろうと。
こう言うたそうですよ。大難は少難ですね。
よく思い出せ。お前はジープに当たる二三日前か
ら家を出るのが嫌であっただろう。
そう言われて考えてみると、なるほど当たったそ
の二三日前から兎に角、家から外へ出るのが億劫
だったというのです。
病気でもなんでもないのにお風呂へ行くのも嫌、
買い物に行くのも嫌、なんとなく外へ出るのが嫌
だったというのです。
それは危ないぞ、危険だぞ気を付けよというて私
が知らせていたんだと。
ところがお前が気がつかんから当たったけど、然
しながら軽く済んだだろう。これからもあること
だからよく気を付けよと。
そういうふうに信仰をしてましたら、なにかしら
という気持ちが起こるんですよ。それが知らせな
んです。
所謂虫が知らせるとか第六感とかよく世間は言う
けど、それは知らせてるんです。
そのときいいことが思ってくるときがそれはいい
んですけど、いい方の事はいいんですけど悪い方
のことは気をつけないといけないわけです、知ら
せはね。
どうも今日は外へ出たくないなと思ったらよくよ
く気を付けないといけませんね。
また或る人は、その人は府庁へ勤めている人で、
或る朝出勤しようというとき急に行くのが嫌に
なった。
ところが急にそういう気持ちになったものです
から休暇届けはしてないわけです。前から嫌に
なっていたら、例えば病気で気分が悪いとか、
欠席届を出せますけれども、急にそういう気に
なってきたのですからね。
また無断でやすんだらいかんというので嫌嫌出
勤したんです。
そしてバスだったか電車だったか兎に角一番最
後に乗ったそうです。
手すりを持ってステップへ足をかけて中へ入ろ
うとすると中の人に押し出されてしまったんで
す。
その反動で道路へひっくり返ってしまった。
そこへトラックが来て倒れたときに髪の毛が散
らばっていたその髪がひかれたというのです。
頭もなにも怪我はしなかったけど髪の上をタイ
ヤが通ったというのです。
それが危ないことだったわけですが、無信心の
人だったら怪我をしていたかもしれませんね。
だからこれも外へ出るのが嫌だったけど、仕方
がないから行く。
それでも神仏は大したことが無いように一所懸
命に守ってくれたんでしょうね。
その人も信仰している人だったんです。
作品名:和尚さんの法話 『衆生仏を憶念すれば仏も亦衆生を憶念し給う』 作家名:みわ