最終電車 2
そこは言葉にできない場所だった。
地面は花畑だった。でもただの花畑じゃなかった。一面が花であることに変わりないけど、花の1本1本が輝いて見えた。自分の存在を主張しているように。
きっとその存在感は、僕なんかよりもずっと強い。
本当に素敵な場所だ。
ここはもう別次元だ。別世界。ここには汚いモノが何もない。
少し歩くと、誰かがいた。
その人はフルートを吹いていた。心地のいい音色だ。
僕は座って、フルートの音を聞いていた。そして、その音をバックに、空を見る。星が煌々と光っていた。
ここには僕の理想の世界がある。ここにずっといたい。ここでずっと、絵を描いていたい。
カバンを探ろうとしたら、まずカバンがなかった。いつも使っていたカバン。お気に入りのカバン。
そして、思い出した。
僕の目的。僕がここにいる理由。僕がここに来た理由。
死のうと思った。だから今僕はここにいる。
死ぬんだ、僕は死ぬ。
でも、どうやって? ここには道具も何もない。僕は何も持っていない。餓えて死ぬ? 餓えて死ぬか。周りがこんなに美しい場所なんだ。幸せじゃないか。こんな、素敵な処の中で、天国に、いけるなんて。
「天国にいけるとは、限りませんよ?」
隣から声が聞こえた。見るとそこには、さっきフルートを吹いていた人が立っていた。
「僕? ……僕に言ってるの?」
「えぇ、もちろんです。ここには、あなたと私しかいませんよ」
「そう……」
「まぁ、あなたの今までの人生を振り返っても、あなたが何か特別悪いことを犯したという例は1件もありませんので、天国いきはほぼ間違いなしでしょうね」
「それは……よかった」
「よかったですか?」
「もちろん。だって、地獄は嫌なところでしょ?」
その人は少し考えて
「そうとは限りませんよ?」
と言った。
「試してみますか?」
持っていたはずのフルートが、いつの間にかただの木の枝に変わっていた。それをデタラメに動かして、何かを呟いた。聞き取れない。英語でも日本語でもなかった。
そして、空から黒い空気の塊が降りてきた。
周りの花は枯れた。いや、枯れたというより、消滅した。1つ1つの存在感とか、輝きとか、そんなものはもうなかった。
そして新たに現れる存在感。むしろ、威圧感と言った方がいいかもしれない。
ゴゴゴゴゴ、という轟音が、耳に直接響く。きっとこれは、空気の塊が実際に音を発しているんじゃなくて、幻聴だろう。漫画の中の1コマにある文字で書かれた効果音を、頭の中でイメージしている感じだ。
それほどまでに、この黒い空気の塊は危なかった。
やがて、黒い空気の塊が形を作った。
扉だった。
威圧感が異常なだけの、ただの扉。
扉のデザインは、至ってシンプルだった。よく童話の中で見かけるような、縦長で真四角の形をしていた。色は黒。それ以外には何色も使われていない。装飾も、何もされていないのだ。
「どうです?」
ただ呆然とそれを見ていた僕は、はっと目を覚ました。
「この中に、入ってみる気はありますか?」
無理だ。そんなこと。
さっき見た空と同じように、こんな扉の中に入ったら二度と戻ってこられないだろう。そんな雰囲気が周りに漂っているのだ。
あれ、でも僕は死にたいはずだ。
もしかして、この中に入ったら死ぬことができるだろうか。
「ほら、また」
その人は僕をおちょくるように言う。
「あなたは、無理矢理自分を殺そうとしますよね」
思考回路が止まる。僕の一切の動きが止まる。瞬きさえも。
何を言っているんだこの人は、と冗談交じりで考える。
まるで心を読まれてるみたいだった。見透かされているようで、この人が怖くなった。
「安心してください。私はあなたが恐れるべき存在ではありませんから」
また、だ。
僕は何も言葉にしていない。全部頭の中で考えている。全部心の中で言っている。それなのに、この人はいちいち僕の問いかけや感想に応える。
誰だろう、この人は。
「……私の名前は残念ながら申し上げることはできません。ですが、あなたの運命を司る者、と言っても過言ではありません。私はその程度の人間です」
「その程度って……充分すごいじゃないか。人一人の人生を操れるなんて」
「いえ、そういうわけではありませんよ。ただ―――」
そこで何かを言うのをやめて、持っている木の棒をまたデタラメに振った。先程とは違う呪文のようなものを呟いた。
一瞬で、あの黒い扉の存在が消えた。ひゅん、と効果音がつきそうなぐらい、速かった。
扉があったところを見ると、消えたはずの花々は何もなかったかのようにそこにあった。
その人は、ふぅ、と自分を落ち着かせ、僕の方を向いてさっきの言葉の続きを言った。
「ただ、あなたが今後取るべき行動によって、私が取るべき行動も変わる、ということです」
意味が分からなかったけど、とりあえず黙って話を聞くことにした。
「あなたが仮に、生きるか死ぬかの選択肢を差し出されて、死ぬを選んだとします。そうしたら私は、あなたを天国か地獄のどちらかへ送り届けなければなりません。もし生きるの方を選択すれば、あなたに今まで通りの日常に戻ってもらうために、あなたの世界へ送り届けるだけです」
「……」
今まで通りの日常。
果たして、それは何だったのか。僕には思い出せなかった。
「あなたは今さっき、死のうと考えていました。いえ、正確に言えば、今もでしょう。ですので私には、あなたが行くべき場所は天国か地獄かを判断して、どちらかまで送り届ける義務があります」
「……うん」
正直、さっさと別世界へ行きたいと思った。
この場所でも悪くない。悪くないが、ここにいることは無理なようだ。
僕の日常がどんなものだったのかは忘れてしまったけど、死のうと思ったってことはきっと、悪いものだったに違いない。どこか別世界―――この人が言う天国か地獄―――に行った方が楽だろう。
「ここで言っておきましょう。あなたがさっき目にした黒い扉が、通称『地獄の扉』とされる、その名の通り地獄へ通ずる扉です」
「地獄か。いいかもね」
「……あなたはあの地獄の扉の中に入りたいと思うかもしれませんが、それははっきり言って不可能です」
「なんで?」
「先程も言った通り、あなたの人生を振り返って見た時、あなたが特別悪いことをしたという例がないからです。それに加えて、行き先判断者が私です。私は全く、あなたを地獄に行かせるつもりなんてありませんから」
「じゃあどこに行かせてくれるの?」
「あなたに、今まで通りの日常に戻っていただこうかと考えています」
だから、その日常は、何だったの。
「は、はは……あははははは!!!」
僕は笑いだした。狂ったように笑って、空を見ながら笑って、寝っ転がって、そして泣いた。
「何故泣くのです」
知らない。自分でもそんなの知らない。
「何故地獄へ行きたいと思うのです。天国へ行くという選択肢もありますのに」
そんなの、どっちでもいいんだよ。
「何故日常へ戻りたくないのです」
そう、僕はそれが一番聞きたいんだ。
地面は花畑だった。でもただの花畑じゃなかった。一面が花であることに変わりないけど、花の1本1本が輝いて見えた。自分の存在を主張しているように。
きっとその存在感は、僕なんかよりもずっと強い。
本当に素敵な場所だ。
ここはもう別次元だ。別世界。ここには汚いモノが何もない。
少し歩くと、誰かがいた。
その人はフルートを吹いていた。心地のいい音色だ。
僕は座って、フルートの音を聞いていた。そして、その音をバックに、空を見る。星が煌々と光っていた。
ここには僕の理想の世界がある。ここにずっといたい。ここでずっと、絵を描いていたい。
カバンを探ろうとしたら、まずカバンがなかった。いつも使っていたカバン。お気に入りのカバン。
そして、思い出した。
僕の目的。僕がここにいる理由。僕がここに来た理由。
死のうと思った。だから今僕はここにいる。
死ぬんだ、僕は死ぬ。
でも、どうやって? ここには道具も何もない。僕は何も持っていない。餓えて死ぬ? 餓えて死ぬか。周りがこんなに美しい場所なんだ。幸せじゃないか。こんな、素敵な処の中で、天国に、いけるなんて。
「天国にいけるとは、限りませんよ?」
隣から声が聞こえた。見るとそこには、さっきフルートを吹いていた人が立っていた。
「僕? ……僕に言ってるの?」
「えぇ、もちろんです。ここには、あなたと私しかいませんよ」
「そう……」
「まぁ、あなたの今までの人生を振り返っても、あなたが何か特別悪いことを犯したという例は1件もありませんので、天国いきはほぼ間違いなしでしょうね」
「それは……よかった」
「よかったですか?」
「もちろん。だって、地獄は嫌なところでしょ?」
その人は少し考えて
「そうとは限りませんよ?」
と言った。
「試してみますか?」
持っていたはずのフルートが、いつの間にかただの木の枝に変わっていた。それをデタラメに動かして、何かを呟いた。聞き取れない。英語でも日本語でもなかった。
そして、空から黒い空気の塊が降りてきた。
周りの花は枯れた。いや、枯れたというより、消滅した。1つ1つの存在感とか、輝きとか、そんなものはもうなかった。
そして新たに現れる存在感。むしろ、威圧感と言った方がいいかもしれない。
ゴゴゴゴゴ、という轟音が、耳に直接響く。きっとこれは、空気の塊が実際に音を発しているんじゃなくて、幻聴だろう。漫画の中の1コマにある文字で書かれた効果音を、頭の中でイメージしている感じだ。
それほどまでに、この黒い空気の塊は危なかった。
やがて、黒い空気の塊が形を作った。
扉だった。
威圧感が異常なだけの、ただの扉。
扉のデザインは、至ってシンプルだった。よく童話の中で見かけるような、縦長で真四角の形をしていた。色は黒。それ以外には何色も使われていない。装飾も、何もされていないのだ。
「どうです?」
ただ呆然とそれを見ていた僕は、はっと目を覚ました。
「この中に、入ってみる気はありますか?」
無理だ。そんなこと。
さっき見た空と同じように、こんな扉の中に入ったら二度と戻ってこられないだろう。そんな雰囲気が周りに漂っているのだ。
あれ、でも僕は死にたいはずだ。
もしかして、この中に入ったら死ぬことができるだろうか。
「ほら、また」
その人は僕をおちょくるように言う。
「あなたは、無理矢理自分を殺そうとしますよね」
思考回路が止まる。僕の一切の動きが止まる。瞬きさえも。
何を言っているんだこの人は、と冗談交じりで考える。
まるで心を読まれてるみたいだった。見透かされているようで、この人が怖くなった。
「安心してください。私はあなたが恐れるべき存在ではありませんから」
また、だ。
僕は何も言葉にしていない。全部頭の中で考えている。全部心の中で言っている。それなのに、この人はいちいち僕の問いかけや感想に応える。
誰だろう、この人は。
「……私の名前は残念ながら申し上げることはできません。ですが、あなたの運命を司る者、と言っても過言ではありません。私はその程度の人間です」
「その程度って……充分すごいじゃないか。人一人の人生を操れるなんて」
「いえ、そういうわけではありませんよ。ただ―――」
そこで何かを言うのをやめて、持っている木の棒をまたデタラメに振った。先程とは違う呪文のようなものを呟いた。
一瞬で、あの黒い扉の存在が消えた。ひゅん、と効果音がつきそうなぐらい、速かった。
扉があったところを見ると、消えたはずの花々は何もなかったかのようにそこにあった。
その人は、ふぅ、と自分を落ち着かせ、僕の方を向いてさっきの言葉の続きを言った。
「ただ、あなたが今後取るべき行動によって、私が取るべき行動も変わる、ということです」
意味が分からなかったけど、とりあえず黙って話を聞くことにした。
「あなたが仮に、生きるか死ぬかの選択肢を差し出されて、死ぬを選んだとします。そうしたら私は、あなたを天国か地獄のどちらかへ送り届けなければなりません。もし生きるの方を選択すれば、あなたに今まで通りの日常に戻ってもらうために、あなたの世界へ送り届けるだけです」
「……」
今まで通りの日常。
果たして、それは何だったのか。僕には思い出せなかった。
「あなたは今さっき、死のうと考えていました。いえ、正確に言えば、今もでしょう。ですので私には、あなたが行くべき場所は天国か地獄かを判断して、どちらかまで送り届ける義務があります」
「……うん」
正直、さっさと別世界へ行きたいと思った。
この場所でも悪くない。悪くないが、ここにいることは無理なようだ。
僕の日常がどんなものだったのかは忘れてしまったけど、死のうと思ったってことはきっと、悪いものだったに違いない。どこか別世界―――この人が言う天国か地獄―――に行った方が楽だろう。
「ここで言っておきましょう。あなたがさっき目にした黒い扉が、通称『地獄の扉』とされる、その名の通り地獄へ通ずる扉です」
「地獄か。いいかもね」
「……あなたはあの地獄の扉の中に入りたいと思うかもしれませんが、それははっきり言って不可能です」
「なんで?」
「先程も言った通り、あなたの人生を振り返って見た時、あなたが特別悪いことをしたという例がないからです。それに加えて、行き先判断者が私です。私は全く、あなたを地獄に行かせるつもりなんてありませんから」
「じゃあどこに行かせてくれるの?」
「あなたに、今まで通りの日常に戻っていただこうかと考えています」
だから、その日常は、何だったの。
「は、はは……あははははは!!!」
僕は笑いだした。狂ったように笑って、空を見ながら笑って、寝っ転がって、そして泣いた。
「何故泣くのです」
知らない。自分でもそんなの知らない。
「何故地獄へ行きたいと思うのです。天国へ行くという選択肢もありますのに」
そんなの、どっちでもいいんだよ。
「何故日常へ戻りたくないのです」
そう、僕はそれが一番聞きたいんだ。