入道雲と白い月2
2
電話が鳴ったのは夜も更けた時のことだった。
夕食を終え、テレビの音を聞くともなしに聞きながら、雛はぼんやりとしていた。祖父母は食卓でのんびりとしつつ、時折言葉を交わしている、いつもの夜の風景。そんな時間帯に電話がかかってくるのは、この家では珍しいことだった。
「誰かね」
言いながら祖母が腰を上げる。祖父はテレビの音量を落とした。するとほどなく、楽しそうな祖母の声が聞こえてくる。
「あれ、吉くん」
聞き慣れた名を聞き、雛はパッと目を瞬く。祖父を見ると祖父も雛に目を向けており、二人の視線が合った。
「兄さんだ」
「そうだね。帰ってきたのか。いつ頃来るっていう報告かね」
「うん」
雛は、この日常が変わる予感に、わくわく感とともに少しだけ動揺を覚えながら、頷いた。兄は何と言っているのだろう。父は帰ってきているのだろうか。
少し待っていたが、我慢できなくなって立ち上がる。祖父と目で合図を交わして、電話のある廊下へ出た。
電話は固定式で玄関のすぐ前にある。雛が近づいて行くと、祖母が気付いて目を細めてきた。
「そうかい・・・・・・。待って、今雛ちゃん来たけど代わる? ・・・・・・うん、わかった」
頷いて、祖母は受話器の口を手で覆い、雛を見る。
「吉くんだよ。話すんだあとも用があるなら、またあたしに代わっとくれ」
「わかった」
受話器を受け取り耳に当てる。口の部分は雛の顔の大きさでははまだ遠い位置にあったが、構わず話し出す。
「兄さん? 雛だよ」
――ああ、こんばんは雛。お久しぶりかな?
「こんばんわー」
丁寧なあいさつをしてくる兄の柔らかい声に、雛はのんきな返事をする。
「そんなに久しぶりじゃないよ。それとも兄さんは、久しぶりと思うくらい会えなくて寂しかった?」
――まさか。騒がしくてあっという間に過ぎちゃったよ。・・・・・・ところでそっちはどう? 元気にしてるって聞いたけど、バテてない?
「大丈夫」
兄妹はしばら互いに近況を報告し合った。父の遺伝か兄もそれほど丈夫と言うわけではないので、健康状態の確認は、互いに真剣だ。もっとも兄は、中学で運動部に入ったことがよかったのか、めったに病気もしなくなっている。両親はともかく、子供同士は以前より心配しなくなってきていた。
――そう。どうやら元気そうだね、よかった。・・・・・・それから、僕らもそろそろそっちに行くから、そう思っといて。もうお祖母さんには言ってある。
「来るの? いつごろ? お父さんとお母さんは?」
勢い込んで聞くと、受話器越しに笑った吐息の音が聞こえてくる。
――母さんは無理だよ。八月半ばまで戻ってこない。父さんは明日家に着くって。すぐに出発は無理だから、そっちに着くのは週明けになると思う。
「そっかあ」
雛は背後にかけられていたカレンダーを振り返り、日付を確認する。と、今週末の日付に印がつけられ「お祭り」と書かれているのが目にとまった。
「あ、じゃあお祭り間に合わないんだ」
――そうだね。おばあさんからも言われた。今回僕らは残念だけど、その分雛が楽しんできなよ。
「うん・・・・・・」
兄に返事をしながらも、雛は別のことを考えていた。祭りという言葉を聞き、左近のことを思い出したのだ。浮かれていた気分が下がり、それが声にはっきりと出てしまう。
――どうしたの?
それは兄にも伝わったようで、心配そうな声が受話器越しに雛に届く。
「うん、あのさ、実はこっちで、大人の友達ができたんだけど・・・・・・」
何となく声をひそめると、居間をうかがう。小さなテレビの音とともに、祖父母が話す声が聞こえてくる。吉城が言ったことを、祖母が祖父に伝えているようだった。
雛は一安心し、しゃべり続ける。
「その人神社の巫女さんで、仕える神様とうまく話ができなくて困ってるの。しかも、わたしその神様を傷つけちゃったみたいで、余計にこじらせちゃったみたいなの。だから、どうにかして二人を助けたいんだけど、どうすればいいと思う?」
――は? えっと・・・・・・
兄の困りきったような声が受話器越しに聞こえてきた。雛はもどかしげに続ける。
「神様は狐の姿で、でも人の姿になれるはずなのに、なれなくなってて困ったるの。だから、力を取り戻して人の姿になれるようにすれば、左近さんと話してくれると思うし、わたしも償いができると思うの」
――ち、ちょっと待って!
焦った声で兄が言い、ひとつ呼吸を整える間が空いてから、続く。
――え、左近さんっていう人が、巫女さん?
「そう」
――その人が雛の友達で、神様に仕えてる?
「そう、そうっ」
――で、その人の仕える神様は、力が弱まっているから、強くする方法を知りたい?
「うん。でも、強くならなくても、左近さんと会って話してくれればそれだけでもいいんでけど、あの様子じゃ無理そうかなって」
ここで、慌てていた兄の声が少しだけ落ち着いた。
――え、会ったの?
「会ってはないよ。でも〈いる〉ことは解ってる。ちらっと見たし」
――はー、そうか。すごいな、雛。今度は神様デビューか。
吉城は安心と呆れが混じったような口調で言ったが、そこに疑いや、子供の空想をあしらうような様子はない。
それと言うのも、この兄は、妹からよくこういう『現実離れした』話を聞かされていたためだった。雛自身はわかっていなかったのだが、死んだはずの母方の祖父母を見たり、木と話をしたりと、さまざまな不思議現象を体験している。そしてその体験をまるで日常会話でもするかのように、さらりと兄に話していたのである。
吉城はいつも否定も肯定もせずに話を聞いていたが、大抵は「そういうことは親しい人以外に言わない方がいいよ」と忠告してきた。なので雛は、当時は理由がわからないながらも、家族と仲のいい友人くらいにしか、そういう話はしなかった。
今の雛ならば言っても信じてもらえないためだからという理由がわかっている。わからなかった当時に言いまわっていたのならば、変人扱いされ、からかわれるか、仲間外れにされるか、うそつき呼ばわりされるか、どれかだったろう。そうならなかったことは、兄のおかげと感謝をしていた。
兄が話をすべて信じているのかいないのかは、雛にもわからない。本人は「そういうのは見える人には見えるし、いるところにはいるんだろう」と言っていたので、否定はしていないようだ。そして普通に話を合わせてくれるので、雛は全く気にせず話すことができた。
「神様デビューって、神様になっちゃったみたいだね。なってないよ?」
――わかってるって。・・・・・・で? 雛は何をしたの? 神様を傷つけたって言ったよね
「あ――うん・・・・・・」
雛の声から力がなくなる。思い出して、気分が暗くなった。
「神様ね、力が弱くなってから、人前に姿を見せなくなってたの。それって引きこもりみたいじゃない? それに仕事もしてないから、ニートだねって・・・・・・」
――言っちゃったの?
「言っちゃった・・・・・・」
当時は思いつくまま口にしていたので大して気にもしていなかったが、今思い返してみると、ひどいことを言った、ということがじわじわとわかってきていた。
電話が鳴ったのは夜も更けた時のことだった。
夕食を終え、テレビの音を聞くともなしに聞きながら、雛はぼんやりとしていた。祖父母は食卓でのんびりとしつつ、時折言葉を交わしている、いつもの夜の風景。そんな時間帯に電話がかかってくるのは、この家では珍しいことだった。
「誰かね」
言いながら祖母が腰を上げる。祖父はテレビの音量を落とした。するとほどなく、楽しそうな祖母の声が聞こえてくる。
「あれ、吉くん」
聞き慣れた名を聞き、雛はパッと目を瞬く。祖父を見ると祖父も雛に目を向けており、二人の視線が合った。
「兄さんだ」
「そうだね。帰ってきたのか。いつ頃来るっていう報告かね」
「うん」
雛は、この日常が変わる予感に、わくわく感とともに少しだけ動揺を覚えながら、頷いた。兄は何と言っているのだろう。父は帰ってきているのだろうか。
少し待っていたが、我慢できなくなって立ち上がる。祖父と目で合図を交わして、電話のある廊下へ出た。
電話は固定式で玄関のすぐ前にある。雛が近づいて行くと、祖母が気付いて目を細めてきた。
「そうかい・・・・・・。待って、今雛ちゃん来たけど代わる? ・・・・・・うん、わかった」
頷いて、祖母は受話器の口を手で覆い、雛を見る。
「吉くんだよ。話すんだあとも用があるなら、またあたしに代わっとくれ」
「わかった」
受話器を受け取り耳に当てる。口の部分は雛の顔の大きさでははまだ遠い位置にあったが、構わず話し出す。
「兄さん? 雛だよ」
――ああ、こんばんは雛。お久しぶりかな?
「こんばんわー」
丁寧なあいさつをしてくる兄の柔らかい声に、雛はのんきな返事をする。
「そんなに久しぶりじゃないよ。それとも兄さんは、久しぶりと思うくらい会えなくて寂しかった?」
――まさか。騒がしくてあっという間に過ぎちゃったよ。・・・・・・ところでそっちはどう? 元気にしてるって聞いたけど、バテてない?
「大丈夫」
兄妹はしばら互いに近況を報告し合った。父の遺伝か兄もそれほど丈夫と言うわけではないので、健康状態の確認は、互いに真剣だ。もっとも兄は、中学で運動部に入ったことがよかったのか、めったに病気もしなくなっている。両親はともかく、子供同士は以前より心配しなくなってきていた。
――そう。どうやら元気そうだね、よかった。・・・・・・それから、僕らもそろそろそっちに行くから、そう思っといて。もうお祖母さんには言ってある。
「来るの? いつごろ? お父さんとお母さんは?」
勢い込んで聞くと、受話器越しに笑った吐息の音が聞こえてくる。
――母さんは無理だよ。八月半ばまで戻ってこない。父さんは明日家に着くって。すぐに出発は無理だから、そっちに着くのは週明けになると思う。
「そっかあ」
雛は背後にかけられていたカレンダーを振り返り、日付を確認する。と、今週末の日付に印がつけられ「お祭り」と書かれているのが目にとまった。
「あ、じゃあお祭り間に合わないんだ」
――そうだね。おばあさんからも言われた。今回僕らは残念だけど、その分雛が楽しんできなよ。
「うん・・・・・・」
兄に返事をしながらも、雛は別のことを考えていた。祭りという言葉を聞き、左近のことを思い出したのだ。浮かれていた気分が下がり、それが声にはっきりと出てしまう。
――どうしたの?
それは兄にも伝わったようで、心配そうな声が受話器越しに雛に届く。
「うん、あのさ、実はこっちで、大人の友達ができたんだけど・・・・・・」
何となく声をひそめると、居間をうかがう。小さなテレビの音とともに、祖父母が話す声が聞こえてくる。吉城が言ったことを、祖母が祖父に伝えているようだった。
雛は一安心し、しゃべり続ける。
「その人神社の巫女さんで、仕える神様とうまく話ができなくて困ってるの。しかも、わたしその神様を傷つけちゃったみたいで、余計にこじらせちゃったみたいなの。だから、どうにかして二人を助けたいんだけど、どうすればいいと思う?」
――は? えっと・・・・・・
兄の困りきったような声が受話器越しに聞こえてきた。雛はもどかしげに続ける。
「神様は狐の姿で、でも人の姿になれるはずなのに、なれなくなってて困ったるの。だから、力を取り戻して人の姿になれるようにすれば、左近さんと話してくれると思うし、わたしも償いができると思うの」
――ち、ちょっと待って!
焦った声で兄が言い、ひとつ呼吸を整える間が空いてから、続く。
――え、左近さんっていう人が、巫女さん?
「そう」
――その人が雛の友達で、神様に仕えてる?
「そう、そうっ」
――で、その人の仕える神様は、力が弱まっているから、強くする方法を知りたい?
「うん。でも、強くならなくても、左近さんと会って話してくれればそれだけでもいいんでけど、あの様子じゃ無理そうかなって」
ここで、慌てていた兄の声が少しだけ落ち着いた。
――え、会ったの?
「会ってはないよ。でも〈いる〉ことは解ってる。ちらっと見たし」
――はー、そうか。すごいな、雛。今度は神様デビューか。
吉城は安心と呆れが混じったような口調で言ったが、そこに疑いや、子供の空想をあしらうような様子はない。
それと言うのも、この兄は、妹からよくこういう『現実離れした』話を聞かされていたためだった。雛自身はわかっていなかったのだが、死んだはずの母方の祖父母を見たり、木と話をしたりと、さまざまな不思議現象を体験している。そしてその体験をまるで日常会話でもするかのように、さらりと兄に話していたのである。
吉城はいつも否定も肯定もせずに話を聞いていたが、大抵は「そういうことは親しい人以外に言わない方がいいよ」と忠告してきた。なので雛は、当時は理由がわからないながらも、家族と仲のいい友人くらいにしか、そういう話はしなかった。
今の雛ならば言っても信じてもらえないためだからという理由がわかっている。わからなかった当時に言いまわっていたのならば、変人扱いされ、からかわれるか、仲間外れにされるか、うそつき呼ばわりされるか、どれかだったろう。そうならなかったことは、兄のおかげと感謝をしていた。
兄が話をすべて信じているのかいないのかは、雛にもわからない。本人は「そういうのは見える人には見えるし、いるところにはいるんだろう」と言っていたので、否定はしていないようだ。そして普通に話を合わせてくれるので、雛は全く気にせず話すことができた。
「神様デビューって、神様になっちゃったみたいだね。なってないよ?」
――わかってるって。・・・・・・で? 雛は何をしたの? 神様を傷つけたって言ったよね
「あ――うん・・・・・・」
雛の声から力がなくなる。思い出して、気分が暗くなった。
「神様ね、力が弱くなってから、人前に姿を見せなくなってたの。それって引きこもりみたいじゃない? それに仕事もしてないから、ニートだねって・・・・・・」
――言っちゃったの?
「言っちゃった・・・・・・」
当時は思いつくまま口にしていたので大して気にもしていなかったが、今思い返してみると、ひどいことを言った、ということがじわじわとわかってきていた。