入道雲と白い月
まだ気温が上がりきらないうちに、村の周辺を散歩するのが、雛は好きだった。
村に来た日、最寄駅から乗ったバスの窓から見た風景は、少女の目にはとても美しく映り、じかに触れてみたいと思ったためだった。
初日は記憶を頼りに、祖父が迎えに来てくれた、バス停まで行った。それから数日は、バス停を中心に、少しづつ行動範囲を広げている。
山村であるため、雛が足を延ばせるのは、なだらかな山裾か、その周囲に作られた平地にある田畑くらいだ。そこで作業する高齢者に声を掛けられ、話をすることも多かった。今日も、バス停を越えたあたりで、おばあさんに出会い、あいさつを交わす。
「おはようございます」
「あら、おはよう、雛ちゃん。今日も元気ね」
「おかげさまです。ありがとうございますっ」
かしこまってちょこんと頭を下げると、おばあさんが笑った。
おばあさんは、野良着に日除けの帽子をかぶり、背に空のかごを背負っている。畑にでも行くのだろうと思われた。
「今日はトマトを取るつもりだから、よかったら寄っといで。少し分けてあげよう。竹中さんたちにもよろしくね」
「はい!」
おばあさんは、祖父母に言付けをすると、のんびりと雛とすれ違った。その姿を視界の隅で追いながら、雛は前へと足を勧める。
バスが通る道は、まっすぐに行くとすぐに村外に出てしまうため、ほどなく雛は道を外れ、山へ向かう道へと入っていった。山といっても、子供が通れるほどの道なので、急なわけではない。
すぐに、ふかふかした土が踏み固められただけの道になったが、木々のカーテンに遮られた日差しの中歩くのは、普通の道を進むよりも快適だった。
夏の朝は、まだ蝉も蚊もそう出てきていない。遠くからたまに聞こえる数種類のセミの声は、まだ心地よいと思える程度の量だった。
辺りを見回しながら、雛は歩く。何か面白いものはないかと、探すように、視線をあちこちに向けている。
そんな子供の目の端に、動くものがかすめたのは、その時だった。咄嗟に足を止め、見えたものの方角へと目を向ける。
(わっ・・・・・・)
心の中で、雛は小さく声を上げる。一瞬で過ぎ去り、ちらりとしか見えなかったが、茶色い毛皮の動物のようだった。
茂みを揺らすこともなく、すぐに遠ざかってしまったようで、音も動く様子も既になくなっていたが、確かにあれは動物だったと思う。
「わー・・・・・・野生の獣だー。初めて見た。・・・・・・でも何だったんだろう?」
呟いて首をかしげる。わずかに見た毛皮から解るのは、そう大きな動物ではないこと。年の割には小さく、一二〇センチ弱の、雛の腰あたりにいたので、中型犬ほどの四足の獣だったようだ。
「野犬・・・・・・かもしれないけど、狼? じゃないか。小鹿、キツネ、タヌキ、カピバラ・・・・・・」
カピバラはいないだろう、と正論を言うものはこの場にいない。
とにかく、茶色い毛で四足であり、会いたい動物を指折り数えた。一通り並べて満足すると、雛は再び歩き出す。
進むに従い、木々の緑がだんだんと濃くなっていく。涼しくていいと、より影の多い方へ足を向けているためだ。
幸い、足元の道の状態はいい。まるで、誰かが頻繁に通っているかのように。
「あれ?」
ほどなく、雛の耳は人がたてる音を聞きつける。ざっざっ、とほうきでも使っているような音だ。こんなところでお掃除? と首をひねりつつ、音のする方へ向かう。
少しだけ曲がった道の先に、開けた場所が見えた。音はだんだん大きくなっていく。
そこには竹ぼうきを使っている、女の人の姿があった。
女の人に気付いた途端、雛は足を止めた。ざっと足音が、思いのほか大きく響き、それに自分で驚いて、思わず目を見張る。
(・・・・・・巫女さん?)
ぽかんと口を開けたまま、まず雛はそう思った。
女の人は、白い着物と赤い袴を身につけており、背中の半ばまである黒い髪を、白い紙でまとめていた。うつむいているため、おでこがよく見える。前髪が後ろになでつけられるようにまとめられていた。固めているかのように、てらんと光っている。
ふと、そのうつむいていた顔が上がった。黒い細めの瞳が、雛をとらえた途端、少し開いて一つ瞬く。
そして、にこりと笑った。
「おはようございます」
「・・・・・・おっ、おはよう、ございます」
思わず、雛は気をつけの姿勢であいさつを返していた。すると、女の人は、口元に手を当てて、くすくすと笑った。恥ずかしくなり、肩から力を抜く。
「見ない顔だな。旅行にでも来たのかい?」
女の人が言った。一瞬何と言われたのかが解らず、慌てた雛だったが、すぐに自分に聞いているのだと気付き、言葉を返す。
「おじいちゃんとおばあちゃんの家に来たの」
「ああ・・・・・・じゃあもう夏休みなのか。・・・・・・で、どこの子だい?」
問われて、先ほどとは別の意味で、返答に詰まる。「知らない人と話してはいけない」と学校で教えられたことを思い出したのだ。
この村の人はいい。雛本人はともかく、祖父母が知らない人はいないのだから、逆に言葉を返さないのは失礼にあたる。しかし・・・・・・
(こんな若い人、おじいちゃんたち知ってるかな? 悪い人じゃなさそうだけど)
迷って返事ができないでいると、女の人は少し首を傾げたのち、ああ、と小さく呟いた。
「私は左近っていうものだ。この神社の巫女をしている。といっても、雇われているだけだから、この家の血縁ってわけじゃないけどな」
言うと、腰をかがめてニッと笑いかけてくる。戸惑っていた雛の中から、なぜだか迷いが薄れた。
「左近さん・・・・・・」
「ああ、そうだ」
「わたしは、雛。竹中雛です」
左近は、少し考え込むようにほうき片手に首をひねったが、やがて軽く頷いた。
「ああ、竹中ご夫妻のお孫さんかあ。あんまり話したことはないけど、村会とかでたまに見るし、挨拶くらいはしてるよ。あのご夫婦もお元気だよね。お子さんは、そうでもない子もいたみたいだけど・・・・・・あの子も元気かな?」
「たぶん、それ父さんのことだと思う・・・・・・。父さんは、元気だよ。もうしばらくしたら、そのうちこっちに来るって言ってた」
「ほう」
左近はおどけたように肩をはねさせた。何となく楽しくなった雛は、それからしばらく、たどたどしくだが話をした。村に来た時のこと、連日の散歩のこと・・・・・・
少しだけ人見知りをする性格だった雛は、あまりなじみのない、左近ほどの年頃の人と話すのは、緊張することだった。しかし、相手の相づちがうまいためか、新しい物事に対する好奇心のためか、随分と長く、二人の会話は続いた。
つうっ、と雛の額に浮かんだ汗が、頬を伝って落ちた。あごの辺りに残った滴を、とっさにこぶしで拭う。気付くと、太陽は随分と高い位置まで上がっていた。
「おや、随分話し込んじまったようだな」
左近も気付いたのか、そう言って胸元から布を取り出すと、雛の額の生え際をぬぐってくれる。
「暑くなってきたな・・・・・・仕事に戻らないと。雛は・・・・・・」
「わたしも、帰らないと。暑くなる前に戻るって、約束したんだった」
「おやま。じゃあ、急がないと。・・・・・・っとその前に」